スーザン・ソンタグ『女性論』より「女性の第三世界」試訳未校正
- Koki EBATA

- 6月16日
- 読了時間: 62分
注 本稿は一九七二年七月、『リブレ』誌編集部から私を含む六人の女性(シモーヌ・ド・ボーヴォワールとイタリア共産党議員ロザーナ・ロッサンダを含む)に送られた質問状への回答として書かれた。『リブレ』はパリで編集されているマルクス主義的な傾向をもつ新しいスペイン語政治・文学季刊誌で、本作は同誌の一九七二年十月号(第三号)に、スペインの小説家フアン・ゴイティソーロの翻訳によって掲載された。『リブレ』の読者の大半は南米に住んでいる。そのため私は、念入りなほど明示的な形式をとった。同時に、この読者層の存在こそが、回答を執筆するにあたって、この主題に対する革命的社会主義の視座を「少なくとも真摯に対峙すべき論点」として自明視する自由を私に与えてくれた。アメリカ合衆国では、戦闘的フェミニズムが今や世界のどこでも見られないほど活発で広く声を上げているが、議論はますます根本的な問いから遠ざかり、マルクス主義的分析への言及すらほとんどなされない。それでもなお、政治的展望の形成はいまだ世界のどこでも初期段階にあるのだから、まったく異なる読者層のために書いたこのテキストを本書に収録するのは妥当だろう。
まず数段落、いわばプロローグとして、あなた方が提起していない、より包括的な問いへの回答として述べておきたい。女性解放の闘争は現在、どの段階にあるのか。
何千年ものあいだ、この世界のほぼすべての人びとは、ある人間が優位にあり(ゆえに支配者であるべき)、別の人間は劣位にある(ゆえに奴隷であるべき)という秩序が、人間という種の「本性」に属していると考えてきた。支配階級の一部が、奴隷制は結局のところ本当は「自然」なものではないのではないか、と疑いはじめたのは、わずか百五十年ほど前にすぎない。奴隷たちの、隷従的性格と文化的未発達はその境遇から生じたのではないか、幼少期から奴隷となるべく育てられてきたという事実によって説明できるのであって、彼らが奴隷に値することの根拠にはならないと、と考えはじめたのである。
今日、女性解放への支持は、二世紀前の奴隷解放への支持とおおむね同じ段階にある。奴隷制が何千年ものあいだ疑問に付されることなく受け入れられていたのと同様に、女性への根深い抑圧もまた、人類という種に「自然」とされる不平等への訴えによって正当化されている。この地上の圧倒的多数の人びと——男性だけでなく女性も——はいまなお、女性は男性とは異なる「本性」をもち、その「自然」な差異ゆえに劣った存在なのだと信じている。
都市化した国々の教養ある住民は、とりわけ自らを進歩的あるいは社会主義的と見なす者ほど、そうした差異が女性の劣等性を含意するという信念を自分は持っていないと否定するだろう。差異はけっして平等でないことを意味しない、と彼らは言い張る。しかしこの論拠は、かつてアメリカの学校分離の法的根拠となった「分離すれど平等」と同様に不誠実である。なぜなら、女性と男性のあいだに先天的とされる差異を細かく見ていけば、女性に帰せられる諸特質は男性に帰せられるそれよりも明らかに低く評価されている価値体系が露わになるからだ。「男らしさ」に結びつけられるのは、能力・自律・沈着・野心・冒険心・独立・合理性である。「女らしさ」に結びつけられるのは、無能・不器用・非合理・受動性・競争心の欠如・愛想の良さである。女性は二流の大人として条件づけられている——高く評価され「典型的に女らしい」とされる振る舞いとは、単に幼稚で、隷従的で、軟弱で、未成熟な振る舞いにほかならない。男性が女性をあらゆる点で対等と認めることに難色を示すのは、何ら不思議ではない。「差異万歳」——まさに、そのとおりである!
女性に正直さや時間厳守、機械の操作・修理における腕前、節約、筋力、身体的な勇気を期待しない風潮——それは、これらの資質を備えた女性のすべてを例外者に変えてしまう。いずれの世代も、特別な地位を獲得する数人の天才的な女性(あるいは少なくとも、抑えがたい奇矯さを持つ女性)を生み出す。しかし、チュン姉妹、ジャンヌ・ダルク、聖テレジア、モーパン嬢、ジョージ・エリオット、ルイーズ・ミシェル、ハリエット・タブマン、イザベル・エベルハルト、マリー・キュリー、ローザ・ルクセンブルク、アメリア・イアハート、そしてこの小さな集団に属するその他すべての者たちが歴史に名を残しているのは、ほかの女性たちには欠けているこれらの資質の直接的な結果として、まさに受け止められているからだ。彼女たちにのみ、男性的な精力・知性・意志・勇気が帰せられる。並外れて優秀で真に自立したこれらの女性の例は、女性という性の劣等性という前提をいささかも揺るがさない——知的に才能ある奴隷の発見(そして彼らが受けた特別な扱い)が、教養あるローマの奴隷所有者たちに奴隷制の自然性を疑わせなかったのと、まさに同様に。「本性」という論法は、自己を立証してみせる。それを反証する個々の生のあり方は、つねに例外として処理され、結果として固定観念はそのまま温存される。
歴史を、いやむしろ先史時代まで遡るなら、女性への抑圧はおそらく、彼女たちに固有の生物学的責務——出産——を担わせるための、ある実際的な取り決めから生じたものだろう。この抑圧が取った精緻な諸形態——心理的・政治的・経済的・文化的——は、いずれもこの生物学的分業に行き着く。しかし、女性のみが子を産むという事実は、両性が本質的に異なるということを何ら証明しない。むしろそれは、この想定された差異の「自然な」根拠がいかに薄弱であるかを示している——その根拠によって、女性の生殖生理は一つの使命に変換され、都合のよい狭隘な性格・気質の規範が押しつけられているのだ。だが、生理学的な「本性」さえも、不変の結果をもたらす固定した実体ではない。それもまた大いなる歴史の一部であり、歴史とともに変容する。最終的に、女性と男性のあいだの唯一の差異が、前者が子を産む役目を担っているという点にあるとすれば、この使命が遂行される条件そのものが、すでに大きく変化していることに注目すべきだろう——「本性」が女性の隷属に名目を与えてきたとしても、いまや歴史こそが、彼女たちの社会的・心理的解放のための客観的条件を与えているのである。なぜなら、男女間の生理学的差異が持つこの重要性こそが、まさに今、過去のものになりつつあるからだ。
産業革命は、奴隷制への異議申し立てに必要な物質的基盤を提供した。無償労働よりも生産的かつ効率的な機械が発明されたとき、人々を法的な隷従状態——労働を強いられる状態——から解放することは、理にかなったものとなったのである。今、生態学的な転換点(寿命の延伸、人口爆発、そして自然資源の急速な枯渇が結びついたもの)を迎え、女性をその生物学的責務との関係から解放すること——この責務をもはや必要最小限にまで縮小すること——は、もはや単に可能であるだけでなく、不可欠なものになろうとしている。女性の生殖をめぐる運命が、二回、一回、あるいはゼロ回の妊娠に限られ(かつ、史上初めて、生まれた子のほぼ全員が成人にまで達する見込みがあるとすれば)、その瞬間、女性を隷従的・家庭的存在、子をなすために生まれた存在として定義してきた狭隘な論理は、根底から崩れ去る。産業革命が、奴隷制の「自然性」を人々に再考させたように、二十世紀半ばに地球が突入したこの新たな生態学的時代は、これまで自明とされてきた女性の「女らしさ」を再考することを可能にする。女性の「女らしさ」と男性の「男らしさ」——これらは、道徳的に欠陥を抱え、歴史的に過去のものとなった観念である。女性解放は、私の見るところ、それに先立つ奴隷制廃止と同等の歴史的必然性を担うものである——奴隷制廃止と同様、しかしその精神的・歴史的帰結においてはより重大な意味を持つこの大義は、一見絶望的でありながら、最終的には勝利するのである。
彼女たちへの抑圧がいかに時代錯誤的であろうとも、女性が解放されるためには、苛烈な闘いを経なければならない——それは「革命的」という形容詞にまさにふさわしい闘いである。この革命は、急進的であると同時に、保守的でもなければならない。保守的であるとは、無限の成長というイデオロギー——生産と消費の絶え間ない増大、環境への歯止めなき食い荒らし——を、それを資本主義を標榜する国々も共産主義を志向する国々も同じ熱意で共有しているわけだが、この革命が拒絶するという意味においてである。急進的であるとは、根本的に権威主義的な道徳的習性に異議を申し立て、それを変革するという意味においてである。女性を解放することこそ、この新たな革命的過程の最も急進的な側面なのだ。
「これまで『女性問題』と呼ばれてきたものは、たんに存在するというだけでなく、急進的な政治思想家たちが一般に提起する問題系から独立して存在する」——革命をめぐる近代思想の権威ある見解とは裏腹に、私はそう主張する。マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、ローザ・ルクセンブルク、グラムシは、女性への抑圧を他の問題から切り離して考えるべきものとは見なさず、むしろそれは階級闘争のうちに吸収されるべきものであり、社会主義の到来とともに解決されるはずのものだと考えた。私はこの見解に同意しない。事実、マルクス主義の遺産を標榜するいかなる政府も、女性の境遇を根本から再考したことはない。それどころか、共産主義諸国はすべて、教育・雇用・離婚へのアクセスの拡大といったささやかな改善を女性に与えるにとどまり、男性による政治権力の圧倒的独占はそのまま温存され、私的領域における両性の関係を特徴づける抑圧の構造もまた、手つかずのまま残された。
しかし、左派の革命家たちが政権を握ったすべての国において、女性のために何ら「急進的」なことが成し遂げられなかったというこの明白な失敗は、驚くに値しない。プロレタリア革命の主要な理論家たちが女性解放のために発した数多くの教化的な宣言のいずれも、この主題の真の複雑さを捉えることができなかった。マルクス主義者たちは、性差別の深さを正しく評価することができなかった——彼らが帝国主義打倒への決意のなかで、人種差別の深さを評価できなかったのと、ちょうど同様に。
さて、ここからあなた方の質問への回答に移ろう。
1. 女性解放という観念は、あなたにとってどのような意味を持つか。
最近よく耳にするのは、女性の解放は男性の解放なしには起こりえない、という言葉である。この通念は、ある程度までは真実だ。女性と男性は同じ目標を共有している——真の自律の獲得、すなわち、疎外と抑圧を基盤としない社会に参与し、かつその社会から放っておかれる、という自由である。しかしこれは危険な通念でもある。なぜなら、女性解放の闘いが複数の段階を含むという考えを、暗黙のうちに排除してしまうからだ。真実を語る多くの通念と同様、それは思考の武装を解除し、怒りを鎮めてしまう。それは、問題に対する受動的で単なる改革主義的な見方を助長する。(「女性の解放は男性の解放に等しい」——これはまさに、洗練されたリベラル資本主義の枠内で女性の平等を保証するためにスウェーデン政府が採用した、徹底して表面的な政策の上に掲げられた、抜け目のない公式スローガンなのである。)
たしかに、この不完全な世界に生きるすべての人間は、解放を必要としている——主人も奴隷も、抑圧者も被抑圧者も、等しく。しかし、正義の社会を構想し、その実現のために闘う営みは、統一的・普遍的な仕方では成立しえない。タイの農民の解放とデトロイトの白人工場労働者の解放とは、同じではない。その根底にある構造から見れば、女性への抑圧は男性への抑圧とは似ていない。
この考えがいかに理にかなって見えようとも、男性の解放と女性の解放とが相互的な過程の二つの側面をなすというのは、まったくの誤りである。男性もまた性差別的なステレオタイプによってどれほど心理的に歪められていようとも、そのステレオタイプは彼らに紛れもない特権を与えている。男性は女性よりもはるかに広い範囲の振る舞いを許され、世界における移動の自由もはるかに大きい。(端的に言えば、女性が単身で「世界」のほとんどの場所へ出かければ、強姦や身体的暴力の危険にさらされる。女性が本質的に安全でいられるのは「自宅」、あるいは男性に保護されている場合のみである。)もっとも具体的な意味において、男性は捕食的な攻撃を避けるために常に身構えている必要がないがゆえに、女性よりも常に有利な立場にある。男性は(女性もまた)他の男性によって抑圧される。しかし、女性全体は、すべての男性によって抑圧されている。
「女性が解放されれば、男性もまた解放される」という通念は、男性による支配というむき出しの現実を、恥知らずにも消し去ってしまう——あたかもそれが、誰一人責任を負わず、誰の意にも適わず、誰の利益にもならない取り決めであるかのように。だが、真実はその正反対である。男性による女性の支配は男性の利益にかなうものであり、女性の解放は男性の特権を犠牲にして実現する。その先には、ある意味でおそらく幸いなことに、男性もまたいつか解放されるだろう——「男らしさ」という、人を疲弊させる強迫からの解放である。しかし、抑圧者がその心理的重荷を下ろすのを許すことは、解放のまったく別の、二次的な側面にすぎない。優先されるべきは、被抑圧者の解放である。歴史において、被抑圧者と抑圧者の要求がよく見れば調和していたことは、一度としてなかった。今回もそれは変わらない。
すべての女性は、男性が宗主国、女性が現地民であるような「帝国主義的」状況のうちに生きている。いわゆる「第三世界」の国々では、男性に対する女性の立場は、専制的かつ残忍な植民地状態にある。経済的に発展した国々(資本主義国・共産主義国を問わず)では、女性の立場は新植民地主義的である。彼女たちの隔離は自由化され、彼女たちへの物理的な力の行使は以前より少なくなり、男性は自らの権威の一部を委譲し、その支配はかつてほど露骨に制度化されてはいない。しかし、劣等と優越、無力と権力、文化的低開発と文化的特権という、根底にある論理そのものは、いずれの場所でも変わらず行き渡っている。
女性解放を目指す真摯な計画は、解放とは単なる平等の問題ではない(これは「リベラル」な発想にすぎない)という前提から出発しなければならない。解放とは、同時に権力の問題でもあるからだ。男性の権力を縮小しないかぎり、女性は解放されない。女性の解放が意味するのは、男性が独占する権力の大部分を女性へ移すべく、意識と社会構造を変えることだけではない。権力そのものの本性が変わるのである。なぜなら、歴史を通じて、権力そのものが性差別的な言葉で定義されてきたからだ——攻撃性や物理的強制への、男性に生まれつき備わっているとされる嗜好という規範的観念と結びつき、また、戦争・政府・宗教・スポーツ・商業における、男性のみで構成される集団の儀礼や特権と結びつけられて。権力の担い手たちの秩序と、権力そのものの本性を転覆させない限り、それがどのようなものであれ、解放ではなく鎮静化にすぎない。深みを欠いた変化は、既存の権威を脅かす怨恨を呼び込むだけである。不安定で専制的な支配を改良する行為は——古い帝国が植民地主義をネオコロニアリズム的搾取の形態に置き換えたように——実のところ、既存の支配の形態を再生させるにすぎない。
女性は相互解放のために男性と共闘すべきだという考えを擁護する態度は、両性間のあらゆる対話を規定する権力関係の過酷な現実に、覆いをかぶせるに等しい。男性を解放する役割を担うのは女性ではない。女性はまず自らを解放しなければならない——言い換えれば、敵対関係の根を探る作業を、和解という夢でいまだ和らげてはならない。女性は自分自身を変えなければならない。互いを変えなければならない。それが男性にどう影響するかを気にかけることなく。女性の意識は、彼女たちが自分自身を考え、自分の男たちにとって何がよいかを忘れたときにのみ変わるだろう。こうした変化が男性との協力のもとで進められると想定する態度は、女性の闘いの広さと深さを縮小し(そして陳腐化させる)。
女性が変われば、男性もまた変化を強いられるだろう。だが男性の側では、それは相当な抵抗なしには起こらない。いかなる支配階級も、闘わずして本物の特権を手放したことはない。社会の構造そのものが男性の特権の上に築かれており、男性がそれをより人間的で、より正しいからという理由だけで放棄するはずもない。男性はおそらく、しぶしぶ譲歩し、女性に「公民権」をいくらか多く与えるだろう。今日、多くの国で女性は投票し、高等教育を受け、職業のための訓練を積むことができる。二十年のうちに、女性は賃金の平等を手にし、(避妊への自由なアクセスと中絶の合法化によって)自らの身体への真の所有権を認められるだろう。しかし、こうした譲歩は、それがどれほど望ましいものであれ、女性を二級市民の地位に留め置く根本的な態度には何ら異議を申し立てず、男性の特権の根にも触れない。
女性の地位における急進的な変化——単にリベラルなものではない変化——は、「本性」という神話を廃絶するだろう。女性が目指すべきは、性的アイデンティティに基づくすべてのステレオタイプ——肯定的であれ否定的であれ——の終焉である。特定の領域(選挙、契約、教育、職業)において女性を差別する法律を変えるだけでは十分ではない。労働の形態、性的習慣、家族という観念も変容を迫られている。そして、女性に対する古来の偏見を露骨に承認し続けてきた言語そのものも、現状のままでは済まされない。なぜなら、いかに進歩的な考えを持っていようとも、私たちが語るたびに、男性の優越(能動性)と女性の劣位(受動性)を、私たちは繰り返し肯定し続けているからだ。行為者、つまり能動的な主体を男性とみなす——それこそが「文法的に正しい」とされているのである。
文法こそ、性差別的な教化の最終的な闘技場であり、特定の場面を除いて、女性の存在そのものを覆い隠している。だからこそ、男女いずれをも指しうる人物を表すのに、私たちは「彼」と言わねばならない。「人間(l'homme)」は、すべての人類を指す正規の語である。(「暗い時代の人々」——ブレヒトの詩の一行であり、ハンナ・アーレントの著作の一冊の題名でもある「Men in dark times」¹は、「暗い時代の男たち」ではなく「暗い時代の人々」を意味する。実際、この見事で崇高な評論集でアーレントが描く十人の肖像のうち、女性はわずか二人にすぎない。そしてその一人、イサク・ディーネセン²は男性の筆名を採用し、もう一人、ローザ・ルクセンブルクについては、カバー裏の文章が偽りの慎ましさをもって述べるとおり、「誰よりも男らしい女性」だったのである!)「学生」「労働者」「市民」「芸術家」「公務員」「運動選手」「実業家」といった名詞に代わる代名詞は「彼」である。言うまでもなく、言語そのものが、男性を人類全体と同一視し、人間の活動の大半を男性のみに帰属させるという偏見の源なのではない。言語は、時代を通じて優勢であった性差別的秩序を、そのまま反映しているにすぎない。
フェミニズム運動のおかげで、いまや少数の女性たちは、文法に潜むこの性差別を侮辱的なものと感じ、それを表明するようになった。より多くの人々にこの意識を広めることは——言語(そして芸術)が伝える人種差別的な決まり文句に、大多数の人々がごく最近ようやく目を開いたのと同様に——重要な課題である。より広く言えば、人々が、両性の交流のあらゆる水準に表れる根深いミソジニーを意識するよう促さねばならない。それは法律のみにとどまらず、日常生活の細部——性的アイデンティティを分極化させる礼儀作法や慣習(服装、身振りなど)、そして性差別的なステレオタイプを永続させる映像の洪水(芸術・報道・広告)——にまで及んでいる。こうした態度は、女性が自らの「本性」から解放され、別の歴史を創造し、そこに住みはじめるときにこそ、初めて変わるのである。
¹〔訳注〕ハンナ・アーレント『暗い時代の人々』(Men in Dark Times, 1968)。表題はベルトルト・ブレヒトの詩の一句に由来する。²〔訳注〕イサク・ディーネセン——デンマークの作家カレン・ブリクセン(Karen Blixen)の男性名による筆名。
2. 女性解放の過程において、経済的解放と性的解放に同等の重要性を認めますか。
この問いそのものが、「解放」という概念に内在する脆さを露呈しているように、私には思える。より具体化されないかぎり、「女性解放」は空疎な目標にとどまり続けるだろう——それは焦点をぼやかし、女性の闘いに向けられるべき力を散逸させる。経済的解放と性的解放が、二つの異なる解放であるのかどうか、私には確信が持てない。だが、それらが異なるもの、あるいは少なくとも別個に把握しうるものだと仮定してみよう。女性を何から、なぜ解放すべきなのかをより明確にしないかぎり、二つの解放が同等の重要性を持つかと問うことには、何の意味もない。
「経済的解放」という観念は、真の問題を覆い隠すために用いられうる。多様な職種への、自宅外での、正当な報酬を伴う女性のアクセスは、たしかに最優先かつ譲歩しえない要求である。女性の心理的・文化的低開発を構成する主要な要因の一つは、彼女たちの大多数が、自らを自らの手で支える手段を持たないという事実にある——文字どおりの意味(経済的に)においても、比喩的な意味(心理的・文化的に)においても。だが、より多くの職への門戸を開き、無償の保育施設を整備することで、生計を立てる可能性を確保するだけでは、まったく十分とはいえない。労働は、専業主婦・母という、いまなおはるかに一般的(かつ規範的)な「キャリア」に対する単なる選択肢、代替案であってはならない。男性と同様に、大多数の女性が働き、(既婚・未婚を問わず)経済的に独立していることが、当然とされなければならない。労働なしには、女性は男性への依存の鎖を断ち切ることはできない——それこそが、女性が完全な大人になるための最低限の前提条件である。働き、かつその労働が夫の労働と等しい価値を持たないかぎり、結婚している女性には、自らの人生を真に自分の手に取り戻す——言い換えれば人生を変える——機会はまったくない。女性が得意とすることで知られる心理的強制と懐柔の技術——媚び、魅惑、なだめ、グラマー、涙——は、真の影響力と自律性の、隷従的な代用品にすぎない。
しかし、単に働けるということだけでは、女性が「解放されている」ことをほとんど意味しない。すでに多くの女性が働いており、そのうち少数は経済的独立を可能にする収入を得ている。それにもかかわらず、大多数はいまなお男性に依存し続けている。その理由は、労働の組織そのものが性差別的な論理に従っているからだ。
そして、この性差別的な労働の分業こそが、女性が苦しめられている被植民地的地位を、確認し、強化するのである。女性は、現代の労働から男性と同等の利得を得てはいない。彼女たちは経済を支える、二次的な補助役を担っている。彼女たちが「世間」で行うことは、彼女たちの「家庭」的存在——奉仕し、世話をする者という像——を再生産する傾向にある。彼女たちは、指導的地位には不適格と見なされている。女性が今日男性によって担われているすべての活動を、同じ条件(給与・業績・リスクへの露出)のもとで——愚かな者、子ども、召使いという特権を放棄して——担うようにならないかぎり、彼女たちが経済的に解放されているとは言えない。彼女たちの経済的解放は、個人としての心理的・道徳的幸福にとって不可欠であるだけではない。女性が、たんなる労働力の予備軍としてではなく、真の専門的技能と指導力の担い手として経済にとって重要な存在になるまでは、彼女たちは政治権力を行使することも、諸制度の支配権を握ることも、来るべき数十年間に社会に生じる変化について真に発言権を持つこともできない。繰り返す——解放とは権力である。そうでなければ、この言葉にはほとんど意味がない。
「性的解放」という観念は、私にはさらに疑わしいものに思える。女性には男性より少ない性的エネルギーと欲望しか認めず(かつ、男性には許容される行動を女性には罰する)という古い二重基準は、明らかに女性を分相応の場所に押しとどめるための手段である。だが、性的実験において男性と同じ特権を女性に求めるだけでは十分ではない。なぜなら、セクシュアリティという観念そのものが、抑圧の道具だからだ。大多数の性的関係は、女性を抑圧し、男性の特権を永続させる態度を再演している。女性の性的表現にかけられていた重荷を取り除くだけでは、彼女たちがより自由に享受できるようになったそのセクシュアリティ自体が、つねに女性を客体に変えてきたセクシュアリティのままであるならば、空虚な勝利にすぎない。後期資本主義の都市社会の風俗が、近年ますます「許容的」になり、一夫一婦制の結婚の枠外で性的存在として行動する女性を、かつてよりはるかに罰さなくなっていることは、誰もが気づいているだろう。だが、この「より自由になった」セクシュアリティが反映しているのは、何よりも自由についての誤った観念——つまり、誰もが他者を、一時的に、利用し、非人間化する権利——にほかならない。
セクシュアリティの規範そのものを変えないかぎり、女性解放は無意味な目標である。セックスそのものは、女性にとって解放的ではない。より多くのセックスもまた、解放的ではない。
問題はこうだ——解放された女性は、いかなるセクシュアリティを志向すべきなのか。女性にとって解放的たりうる唯一の性的倫理とは、性器的異性愛の優位性そのものに異議を申し立てる倫理である。非抑圧的な社会、女性が主観的にも客観的にも男性と真に対等であるような社会は、必然的に両性具有的(アンドロギュナス)な社会である。なぜか。女性への抑圧が終わりうる、もう一つのありうべき条件は、男性と女性が別々に生きるという決断であるが、これは不可能だからだ。分離主義は、白人による「有色」の人々への抑圧を終わらせる手段としてはなお考えうる。地球上の異なる場所に起源を持つ諸人種が、それぞれの慣習や精神性を、文化的・経済的帝国主義の侵入から厳重に保護したうえで、ふたたび分離して生きるという決断は、ありうるかもしれない。それに対して、女性と男性は、間違いなく永遠に共生し続けるだろう。したがって、性差別への答えが——人種差別とは違って——分離主義のうちには決して見出されえないのであれば、それぞれの性の道徳的・美的「伝統」を擁護すること(いわば「文化的多元性」に相当する何かを保持するために)、また、知的卓越や合理性という唯一の基準を男性的「文化帝国主義」として攻撃すること(無名で蔑まれた「女性文化」を再び正当化するために)は、女性解放の闘いにおける欺瞞的な戦術である。
闘いの目標は、両性間の差異を保護することではなく、それを失効させることであるべきだ。女性と男性のあいだに非抑圧的な関係を創出するということは、両性のあいだに引かれてきた慣習的な境界線を可能なかぎり消し去り、「他者性」から生じる緊張を減じることを意味する。近年、若者たちが、服装・髪型・身振り・趣味において、両性の差異を縮小し、ときには曖昧化する傾向にあることは、誰の目にも明らかだろう。しかし、脱分極化へのこの最初の一歩は——資本主義的な消費の形態によって、回収というかたちで部分的に単なる「スタイル」(ユニセックス・ブティックの商売)へと縮減されてしまっている——その傾向がより深い水準に根を下ろさないかぎり、政治的な意味を剥奪されてしまうだろう。
この、より深い両性の脱分極化は、職業の領域において、そしてますます、性的関係そのものにおいて生じなければならない。「他者性」の縮減とともに、両性間の性的魅力を生むエネルギーの一部は減退するだろう。女性と男性は、もちろん依然として愛を交わし、カップルを形成し続ける。しかし、両性はもはや、本質的に潜在的な性的パートナーとしては定義されないだろう。性差別もなく抑圧もない社会において、セクシュアリティはある意味で今日よりも大きな役割を担うことになる——それがより拡散したものとなるからだ。同性愛という選択は、異性愛と同じく正当で尊重されるものとなり、両者はともに、真の両性愛から発展するだろう。(排他的な同性愛——それは異性愛と同様、学習されたものである——は、性差別のない社会においては、今日よりもはるかに稀なものとなるだろう。)しかし、そのような社会において、セクシュアリティは今よりも重要性を減じることにもなる——なぜなら、現在の社会によって阻害されている真の自由や、その他の多くの喜び(親密さ、強度、帰属の感覚、冒涜)の代替物として、性的関係をヒステリックに欲望することがなくなるからだ。
3. 女性解放の闘いと階級闘争との関係について、どのようにお考えですか。前者は後者に従属すべきだとお考えですか。
階級闘争と女性解放の闘いとのあいだに、現時点で私が見いだせる連関はほとんどない。現代の革命的左翼が担う政治闘争の二つの軸——一国内におけるある階級による別の階級の打倒、そして帝国主義の軛からの被植民地民族の解放——は、女性としての女性の闘いにおいては、おおむね無関係である。女性は社会階級でもなければ、一つの民族でもない。政治的に急進的な女性たちが、女性の闘いに自らの力を限定すること(彼女たちにはそう見えるのだが)よりも、既存の蜂起運動に参加することを選ぶのは、まったくありうることだ。だが、そうするのであれば、彼女たちは次のことを自覚すべきである——この全方位的な革命的活動主義(それは政権党のアプローチに似ている)が女性に提供しうるものは、改革主義的な前進、すなわち形式的な「平等」の約束以上のものではない、ということを。
どの水準の闘いが優先されるべきか。この点について、どこにでも適用できる立場がありうるとは、私には思えない。闘いにおける優先順位は、国家によって異なり、歴史的な時点によって異なり——さらに同一国家の内部でも、各人の民族的出自や社会階級によって異なる。今のところ、ベトナムの女性解放が、民族解放のための闘いに従属すべきであることは、明らかであるように思われる。これに対し、富裕国においては、女性解放はそれ自体としてもより直接的に切迫した問題であり、また他の形態の闘いへ人々を急進化させるためにも、より切迫した問題である。(たとえば、女性への抑圧の本質を探究することは、帝国主義の本質をより明確に理解する助けとなりうる。そしてその逆もまた然りである。)
私の見るところ、女性の闘いと、マルクス主義的潮流の革命運動が中心的闘争として定義する階級闘争との関係について、最も重要な点は次のことだ——女性の解放には、態度と心的習慣そのものに切り込む文化革命が必要であり、それなしには、これらの態度や習慣は、階級闘争の目標である経済関係の再編をくぐり抜けて、そのまま生き残ってしまう可能性がじゅうぶんにある。階級間の関係の変化によって、女性の地位がほとんど影響を受けない、ということもおそらくありうる。マルクスとエンゲルスは、啓蒙主義を継承するヒューマニストであったがゆえに、資本主義のもとでの女性への抑圧を批判した。しかし、マルクスとその後継者たちの伝統的な「フェミニズム」は、マルクス主義的分析と論理的に結びついているわけではない。(同様に、フロイトの粗雑な「反フェミニズム」も、精神分析理論の基本的な観念と論理的に結びついているわけではない。)社会主義から、女性の解放が必然的に帰結するわけではない。とはいえ、より良い呼び名がないために「社会主義的」と呼ぶしかない社会においてのみ、女性を解放しうる存在の形態を発明し、制度化することが可能になるだろう。したがって、社会主義の建設のための闘いと女性解放という大義は、まったく同一ではないにせよ、戦闘的なフェミニストたちは、社会主義的革命運動の未来に明確な直接の利害関係を持っており、少なくとも戦術的にはその同盟者であるべき十分な理由を持っている——ちょうど、男性の特権の強化と女性の隷属化をつねに説く、すべての右派(あるいはファシスト)の革命運動の敵であるべき理由を持っているのと同様に。
4. 無償であり、労働市場において何ら価値を持たない家事労働は、女性を他の社会階級から区別される独自の階級にすると思いますか。あなたにとって、家父長制的抑圧は現代社会における主要な矛盾でしょうか、それとも二次的な矛盾でしょうか。
いいえ。女性のものとされる「家事労働」が、身体的なものであり、かつ「世間」で行われる労働とは異なり無償である、という事実は、女性を独自の社会階級に位置づけるものではない。女性は、男性以上に一つの社会階級を成すわけではない。男性と同様、女性もそれぞれの階級の半数を構成している。富裕な男性の姉妹や娘である女性たちは、貧者への抑圧に加担している。少数の女性が他の女性を抑圧するのは、性別によってではなく、階級的帰属によってである。何らかの呼称が必要であるならば、女性はおそらく「カースト」と見なされうるかもしれない。しかし、それはあくまで類比にすぎない。社会分析の他の領域から借用できる適切な呼称は存在しない。女性が一つの階級を構成すると想定することは、黒人が一つの階級を構成すると想定することと同様、意味をなさない。人類は二つの性(そして性的アイデンティティに基づく「カースト」的関係)から成り、また複数の民族的帰属(主に皮膚の色に基づく「カースト」的関係を伴う)から成る。ある階級による別の階級の抑圧は、抑圧の一つの形態にすぎない。二つの性の存在を中心に築かれた構造は、異なる人種の存在を中心に築かれた構造と同様、社会階級の存在を中心に築かれた構造へと還元することはできない——もちろん、これらの抑圧がしばしば互いに絡み合うことは明らかであるとしても。
この問いのうちに、私は次のような願望を見て取る——女性への抑圧が、特定の社会形態、特定の階級組織に帰せられるはずだ、という願望である。しかし、事実はそうではない。社会主義が——少なくとも今までのところそれが取った形態において——解決策として明らかに浮上してこないのと同様に、資本主義もまた、争う余地のない元凶ではない。女性はつねに劣った者として扱われ、つねに政治的・文化的に周縁化されてきた。女性への抑圧は、組織された社会における中核的な抑圧の形態である。言い換えれば、それは最も古い抑圧であり、階級・カースト・人種のいかなる抑圧にも先行する。それは、最も原初的な階層秩序の形態なのである。
それゆえ、「家父長制的抑圧」(あなたの言葉)を、主要であれ二次的であれ、いかなる種類の「矛盾」として捉えることが可能であるのか、私には分からない。それはむしろ、まさにこの社会の構造そのものの礎石をなしており、それを解体することは、友愛と愛における最も根深い習慣、労働についての観念、戦争を遂行する能力(それは性差別的な不安によって深く養われている)、そして権力の機構そのものに至るまで、変容を及ぼすだろう。組織された社会における権力の本性そのものが、性差別的な行動様式の上に築かれている。権力は、マチズモの観点から定義され、マチズモによって養われているのだ。
現代の産業社会が、相互に矛盾する数多くの構造とイデオロギーの集積であることは、たしかである。だが私の見るところ、女性解放の闘いにおいて、すでに存在する諸矛盾を激化させ深刻化させることに主眼を置くかぎり、勝利を望むことはできない。課題は、ある矛盾を利用することではなく、最も深く根を張ったこの構造そのものを、根こそぎにすることにある。女性運動は、この事態の本性そのものへの批判的な攻撃へと至らねばならない——家父長制的な法の千年来の専制こそが、ひときわ近代的なファシズム国家の専制の、隠れたモデルなのだから。
私はあえて強調したい——ファシズムとは、両大戦間期のヨーロッパにおいてのみ最大の説得力を獲得した政治的逸脱などではなく、近代国家の通常の状態である。すなわち、産業的に発展したすべての国の政府が向かっていく状態である。言い換えれば、ファシズムとは、家父長制国家の諸価値が、二十世紀の「大衆」社会の諸条件(と諸矛盾)に適用された、その自然な発展形態なのである。ヴァージニア・ウルフは、一九三〇年代末、『三ギニー』という見事な小冊子のなかで、女性解放の闘いはファシズムに対する闘いであると述べた。彼女はまったく正しかった。
5. 現代社会において、賃労働の大部分は疎外であるとよく言われます。それにもかかわらず、あなたは女性に対し、賃労働への就労を解放の手段として勧めますか。
賃労働の大部分がいかに疎外的であろうとも、女性にとって職を持つことは、いまなお解放を意味する——少なくとも、それが彼女たちを家庭という枠組みの監禁状態と、寄生的な生から引き離す、というだけの理由によってでも。しかし、職を持つことは、もちろん最初の一歩にすぎない。女性は、完全に平等な条件のもとで社会の労働に参加しないかぎり、決して自律することはない。女性は、彼女たちを孤立させるゲットーのような職種から脱出しなければならない——それらの職は、隷従に生きるよう調教された女性たちの性質を、いまなお利用し続けている。その調教は、彼女たちに、支え手であると同時に寄生者であること、大胆さを欠くことを教え込んできた。女性が「家庭」を離れて「世間」へ出て働くということは、ほとんどの場合、その「世間」への——つまり成功への——全面的な関与を意味しない。たいていの場合、労働は単に金を稼ぐ手段、家計を補う手段としてのみ理解されている。女性が政治的地位や企業の管理職に就く割合はごく少なく、専門職・知的職業(教育を除く)に占める割合もきわめて小さい。共産主義諸国を除けば、女性は、機械との専門的かつ密接な関わりを要する職、あるいは身体を攻撃的に用いる職からは、ほぼ排除されている。身体的に危険または冒険的とされる職、そして男性の活動を(支援するのではなく)直接競合する職からも、ほぼ排除されている。報酬が低いという問題に加えて、女性に開かれた職の大部分は、昇進の見込みが乏しく、能動的であり決断を下したいという正当な欲求のための、きわめて貧しい発散口しか提供しない。その結果、女性が達成した並外れたことのほとんどは、無償の活動として為されてきた。なぜなら、「女性的」とされる従順さと非論理性のステレオタイプから逸脱したとき、女性に向けられる非難の激発に立ち向かえる女性は、ごく少数だからだ。(女性を「野心的」「したたかな」「インテリ」と呼ぶことは侮蔑的な響きを持つ。そして、男性であれば普通の、あるいは推奨されるべき攻撃性として受け止められるであろう振る舞いに対して、女性は「去勢する女」と呼ばれるだろう。)
現代社会で得られる職の大部分が疎外的であると見なすならば、私がより強く印象づけられるのは、女性が苦しめられている二重の疎外である——彼女たちには、男性が労働から得るあの限られた満足さえも、与えられることがない。今日の姿のままの労働世界に入ることで、女性は多くを得る。彼女たちは技能を獲得し、それによって自らをよりよく支え、よりよく組織することができるようになる。そして彼女たちは、各々の職、各々の専門領域において、自らの要求を前進させることのできる、特定の闘いの舞台を手に入れる。
これらの要求は、女性が受け入れられている労働の場において個人間で達成されうる「平等」のみを超えなければならない。同一労働同一賃金の実現(この最低限の要求さえ、中国を含む世界のどの国でも、いまだ満たされていないにせよ)よりもはるかに重要なのは、労働世界がそのうえに組織されている性差別的なステレオタイプを解体することである。女性は、外科医、農学者、弁護士、機械工、軍人、電気技師、宇宙飛行士、工場の管理職、指揮者、音響技師、チェス選手、石工、パイロットにならなければならない——そして、その存在が見過ごされるほど十分な数において。(ソヴィエト連邦の医療職のように、それまで男性の独占であった職業において女性が多数派になると、性差別的なステレオタイプへの異議申し立てそのものが弱まっていく。その結果、これまで「男性的」であった医師という役割が、「女性的」な役割になってしまうのだ。)
労働における性差別的な隔離の体制が強固であるかぎり、女性も男性も含めた多数派は、女性には多くの職業に必要な体力、合理性、沈着さが欠けているという論拠で、その体制を正当化し続けるだろう。その体制が弱まるにつれて、女性は技能を獲得していく。そして、現在は禁じられているこれらの職務を、単に容認されるのではなく遂行することが期待されるようになったとき、実際には多くの女性がそれを成し遂げる能力を持っていることが明らかになるだろう。
労働における性差別的な隔離が完全に廃止されれば、女性は、ここで述べられているような労働の基本法則そのものへの異議申し立てにおいて、男性の同僚たちと肩を並べるための、よりよい資格を得ることになる。現代社会における労働を組織する官僚的な機構そのものが、計画と意思決定の分散化された手段を提供するために、再考されなければならない。そして何よりも、「生産性」(および消費)という理念そのものが、問い直されなければならない。富裕国の経済は、性差別的な論理に基づく機能の分業によって動いている——男性は「生産者」かつ道具の使用者として定義され、女性(と若者)は主として「消費者」として定義される。この区別が存続するかぎり、女性が男性の職に進出することは、心理的に疎外され、すでに財(と廃棄物)の無限の生産という、生態学的に自殺的な大進軍に動員されている「生産者」の大軍の兵力を、ただ二倍にするだけだろう。
避けがたく行われるであろう労働の問題の再検討は、今日のエリートたちによって為されてしまう危険があり、女性たちは、男たちが自分たちを除外したままで重要な決定を下していたことに、後になって気づくことになるかもしれない。来るべき二十年間に構想されるべき新たな労働の構造(その特徴のいくつかは、多くの分野で労働量を削減する必要性に基づくものとなるだろう)もまた、性差別的な体制を——女性を、寄生的で従順な補助者の役割に閉じ込めることによって——永続させてしまう結果に終わる可能性がある。それを避けることができるのは、女性が、いまなお「疎外的」であるとしても、フェミニズム的な戦闘的意識をもって、今すぐ労働世界に身を投じる場合だけである。
6. 女性解放の闘いを、あなたはどのように構想していますか。(a)革命的/政治的組織の枠内に位置づけるものとして、それとも(b)女性運動だけに限定されるものとしてでしょうか。
急進的な政治組織が女性の大義を支持することは、つねに好ましい知らせである——とりわけ、その組織が、ブラック・パンサー党のように、それまで悪名高く性差別的であった組織の一つである場合には。しかし、そうした支持から長期的な利益が得られるかについて、私は楽観的ではない。この同盟は、実際にそうであるよりも自然なものに見える。革命的な闘いは、女性を歴史の主体とすることによって彼女たちを解放し、性差別的なステレオタイプを急速かつ目に見える形で乗り越える傾向を、たしかに持っている。パリ・コミューン、ロシア革命、第二次世界大戦中のイタリアおよびフランスにおけるレジスタンス、イスラエル建国のための闘い、キューバ革命、三十年にわたるベトナム独立闘争、パレスチナ運動、ラテンアメリカの都市ゲリラ——これらの社会において、こうした武装闘争が始まる直前まで女性たちに許されていたこと(あるいは適性があると見なされていたこと)と比較して、これらの闘いのなかで女性たちが何を成し遂げたか(何を「許されたか」)を考えてみてほしい。しかし、この解放は一時的なものにすぎない。闘いが勝利によってか敗北によってか終結すると、女性たちはつねに速やかに動員解除され、伝統的で、受動的で、歴史を持たない役割へと戻るよう促される。(その後、彼女たちの参加は、歴史家やイデオローグたちによって無視されるか、わずか数行で片づけられるだろう——たとえば現在のフランスでは、レジスタンスにおける数多くの女性戦士・殉教者について、耳をふさぐような沈黙が支配している。たとえ言及されるとしても、彼女たちの行為は、男性の優越的な役割を確認するための映像によって取り囲まれることになる——一九三〇年代の毛沢東軍における女性兵士たちを称揚し、その功績を歌い上げることを表向きの目的とした、最近の中国映画『紅色娘子軍』のように。これは著しく性差別的な作品である。)
性差別的なステレオタイプとの根本的な断絶——たとえ一時的なものであっても——は、急進的な政治活動家たちにとって、蜂起、「人民戦争」、武装闘争、あるいは外国占領への地下抵抗に身を投じる場合にのみ容易であるように思われる。そうした軍事的緊急性を欠く状況においては、急進的な政治組織内部における女性の扱いは、実のところ模範的とはほど遠い。表向きフェミニズム的な「見解」を掲げているにもかかわらず——権力の座にあるか否かを問わず、公式の共産党から、一九六〇年代以降活動する新左翼や半アナーキスト的諸集団に至るまで——そのほとんどすべてが、その内部運営において、あらゆる種類の性差別的な「習慣」を、批判的な距離を取ることなく容認し助長している。
現在見られるフェミニズムの波は、ほかでもなく、一九六〇年代のアメリカ最大の学生組織のなかから、二級の構成員として扱われることに飽き飽きした女性たちの、苦悩に満ちた覚醒として生まれたものである。集会において、彼女たちの発言が男性と同等の真剣さで受け取られることは決してなく、彼女たちはつねに——みずから申し出ない場合には——書記の役割を割り当てられたり、進行中の討論から退席してコーヒーを準備するよう求められたりした。デモの際には、しばしば騎士的に警察の暴力から保護されながらも、彼女たちは指導的な役割からは一貫して排除されていた。もちろん、急進的組織における恩着せがましい性差別は、少なくともアメリカ合衆国においては、まさにこうした女性たちの抗議によって、いくらかその勢いを失った。当初は孤立し、笑いものにされた少数派であった彼女たちは、より広範な多くの女性の意識覚醒——アメリカ合衆国に始まり、近年(より緩やかに、限定的な形ではあるが)西欧にも広がりつつあるこの覚醒——の最前線に立っていた。今日、一九七〇年代において、解放を求める女性も、求めない女性も、急進的な活動家のなかに、以前よりも多くの男性の協力者を見出すことができる。しかし、既存の革命組織の内部で活動することだけでは十分ではない。現段階においては、それは中心的な課題でさえない。
今のところ、そしてしばらくのあいだは、私の見るところ、フェミニズム運動こそが主たる役割を担わなければならない。今日、異議申し立て運動に参加する多くの男性が協力者と見なせるとしても(実際にはそれほど多くはない)、女性は闘いそのものの大部分を主導しなければならない。女性たちは、それぞれの社会階級、それぞれの職業、それぞれの共同体において集団を形成し、さまざまな水準の闘いと、生まれつつある意識を支え、励まさなければならない。(たとえば、女性のみを診察する女性医師、女性のみを依頼人とする女性弁護士・会計士による職業別の女性専用団体の創設によって——だが同時に、女性だけのロックバンド、農場、撮影クルー、小企業などを立ち上げることによっても。)政治的には、女性は、自らが主導する集団として組織化されないかぎり、戦闘的な声を見出すことはできない——黒人が、より広範な要求を掲げる組織にいまだ代表されているあいだは——それは実際には、進歩的な学歴を持つ白人たちの善意ある指導のもとに身を置くことを意味していたが——真の戦闘性を見出せなかったのと同様に。政治的行動の目的の一つは、それを組織する者たち自身を教育することにある。現在の政治的な低発展の段階においては、(たとえ理解のある)男性とともに活動することは、女性が政治的な成熟を学ぶ過程を遅らせてしまう。
女性は、何よりもまず、互いに語り合うことを学ばなければならない。黒人(および他の被植民地民族)と同様、彼女たちは組織化に苦労し、互いを尊重し、互いを真剣に受け止める用意を容易には持っていない。彼女たちは、男性の指導・支援・承認のもとで生きることに慣れている。それゆえ、彼女たちが自分たちだけで政治的に組織化することを学び、他の女性たちへ手を伸ばそうと試みることは、いっそう不可欠である。少なくとも、そうすれば、彼女たちの過ちは彼女たち自身の過ちとなる。
より一般的に言えば——女性が男性とともに自らの解放のために活動することを好む者は誰であれ、女性への抑圧の現実を、暗黙のうちに否定している。そのような政治は、女性の名において行われるいかなる闘いも、穏健なものにとどまり、最終的には回収されうることを、事実上保証してしまう。それは、何ら「急進的」なことが起こらないこと、女性の意識が深いところで変化しないことを、あらかじめ確実にする方法である。なぜなら、男性と並んで行われる統合的な取り組みは、女性が「急進的」に考える自由を、必然的に制限してしまうからだ。女性の解放に必要な、彼女たちの意識における深い変化が実現する可能性は、一つしかない——女性たちが自分たちだけで組織化することである。意識は、対決を通じてのみ変化する——いかなる慰撫も不可能な状況においてのみ。
したがって、女性のみで構成される集団だけが行うことのできる——あるいは行おうとする——活動が存在する。なぜなら、完全に女性のみで構成された集団だけが、その戦術において十分に多様であり、かつ十分に「過激」であるからだ。女性たちはロビー活動を行い、デモを行い、大挙して街頭に出るべきだ。空手を学ぶべきだ。街で男性に向かって口笛を吹くべきだ。美容院を打ち壊すべきだ。性差別的な玩具メーカーの前で抗議すべきだ。相当数がレズビアニズムへ戦闘的に転向すべきだ。自分たち自身の精神科クリニックや中絶センターを開設し、運営すべきだ。離婚のためのフェミニズム的助言を提供すべきだ。化粧品依存からの脱却のためのセンターを設立すべきだ。母親の姓を名乗るべきだ。女性を侮辱する広告看板を破壊すべきだ。著名人や政治家の従順な妻たちを称える歌を歌いに行って、公的行事を妨害すべきだ。扶養手当および男性の嘲笑への放棄宣言を、大規模に集めるべきだ。発行部数の多い女性誌を名誉毀損で訴えるべきだ。患者と性的関係を持つ精神科医に対して、電話による嫌がらせ運動を組織すべきだ。男性版のミスコンテストを開催すべきだ。すべての選挙にフェミニストの候補者を立てるべきだ。これらの「過激な」行動のいずれも、それ単独で必要不可欠というわけではないとしても、すべてが、女性の意識を高めるという点で価値を持つ。そして、多くの人々がこうしたアプローチに衝撃を受け、あるいは嫌悪感を表明するとしても、その語りは、実際には沈黙する多数派に対して肯定的な効果をもたらす。たとえ参加するのがごく少数であっても、このゲリラ演劇は、数百万もの人々に、それまでほとんど意識されていなかった性差別的な態度に対して防御的な姿勢を取らせる——少なくとも、それらの態度が当然のものではないという考えに、彼らを慣れさせるのである。(私はまた、真のゲリラの暴力の有用性も排除しない。)
活動家たちは、性差別的な決まり文句(たとえば——女性は感情的な生き物であり、距離を置いた客観的な態度を取ることができない、というもの)を裏づけてしまうことへの恐れによって、動揺させられてはならない。彼女たちは、「女らしさ」のステレオタイプに違反する振る舞いを、揺るぐことなく採用しなければならない。よく言われるように、女性が「品位」をもって行動し、礼儀作法を逸脱せず、魅力的なままでいれば、より効果的で影響力を持てるという保証は、彼女たちを政治的な受動性のなかに留め置くことに寄与する。女性は、好意的な助言を装ったこの種の威圧に対して、軽蔑をあらわにすべきだ。女性は、無作法に、けたたましく、そして——性差別的な基準からすれば——魅力のない存在として振る舞うほうが、政治的にはるかに効果的だろう。彼女たちは嘲笑されるだろう。そして、それをただ平然と耐えるのではなく、喜ぶべきである。女性活動家たちの行動が「滑稽」と評され、彼女たちの要求が「過剰」と評されたときにこそ、彼女たちは自分が正しい道を歩んでいると確信できるのだ。
7. その場合、短期的および長期的目標は何でしょうか。
重要なのは、短期的目標と長期的目標との差異ではない。すでに述べたとおり、重要なのは、改革主義的(あるいは進歩主義的)目標と急進的目標との差異である。投票権の獲得以来、女性が追い求めてきたのは、改革主義的目標のみであった。
一例を挙げよう。同一の職務において男女に同一の賃金を要求することは改革主義的である。女性がすべての職務、すべての専門職に、例外なくアクセスできることを要求することは急進的である。同一賃金の要求は、体系としての性的ステレオタイプには手を触れない。同じ職に就く女性に男性と同額を支払うことは、形式的な公正を確立するにすぎない。すべての職のおよそ半数が女性によって占められ、あらゆる形態の雇用と公的責務が完全に男女混成となったとき、初めて、性的ステレオタイプの終焉を語ることができる——それ以前にはできない。
この差異を改めて強調することで、私は改革主義的な成果が取るに足らないと言おうとしているのではない。それらは、それを獲得するために闘うに値するものである——その証拠に、これらの要求は、多数派の目には、すでに過度に「急進的」なものと映っている。改革主義的要求の大半は、ごく自然に受け入れられているわけではけっしてない。その受容へと向かうこの緩慢な歩みにおいて、共産主義諸国は明らかに先行している。これに続くのは——公共政策における進歩への目覚めの度合いにおいては、はるかに遅れをとりながらも——プロテスタント文化圏の資本主義諸国、とりわけスウェーデン、デンマーク、イギリス、オランダ、アメリカ合衆国、カナダ、ニュージーランドである。集団のしんがりには、カトリック文化圏の国々——フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、メキシコ、そして中央・南アメリカ諸国——が位置する。これらの国々では、既婚女性は夫の署名なしに不動産を購入・処分することができず、離婚の権利は——中絶の権利については言うまでもなく——いまなお激しく争われている。そしてラテン諸国よりもさらに遅れ、ほとんど視界の外にあるのが、イスラム文化圏の国々である——そこでは女性は、きわめて厳格な社会的隔離、経済的搾取、性的監視のもとに置かれ続けている……
こうした進歩における不均衡にもかかわらず、私はあえて予測したい——改革主義的要求の大部分は、今世紀末までに、大多数の国において満たされるだろう、と。しかし、闘いはそのときようやく始まるにすぎない。これらの要求は、女性を二級市民にとどめている、自由を侵害し恩着せがましい態度に何ら変化をもたらすことなく、達成されうるのだから。女性は怒りを経験し、それを表現する術を学ばなければならない。
女性は、具体的な要求を立てはじめなければならない——まず自分自身に向けて、その後に男性に向けて。手始めに、女性は象徴的な行為によって、完全な大人としての地位を確認することができる——たとえば、結婚にあたって姓を変えないことによって。彼女たちは、自らを隷属させ、自分自身を客体にすることへの同意を意味する、外見への配慮から身を引き離すことができる。(化粧と、美容院という安心を与える聖職的な装置を手放すことで、女性は、女性にとって自明なものとされている——侮辱的なことだが——虚栄心とナルシシズムを、象徴的に放棄するのである。)彼女たちは、自らの劣位を演劇化し、それを誘惑へと転換する、男性的な礼儀作法の儀式を拒むことができる。これまでの作法とちょうど同じ頻度で、今度は女性が男性の煙草に火をつけ、彼らのスーツケースを運び、彼らに代わってタイヤを交換するべきだ。女性が、あらかじめ定められた「女性的」役割を拒むもっとも些末な行為さえも、重みを持つ——それらが女性と男性の双方を教育するからである。それらは、女性が、自らの解放を支える制度的枠組みについて真剣な意識を持つための、不可欠な序奏である。この思考は、女性によって、女性のために運営される実験的な制度——生活共同体、労働共同体、学校、保育所、医療センター——の創設と、同時に進行しなければならない。これらの制度は、女性たちの連帯、彼女たちの意識における政治化の深まり、そして体系としての性的ステレオタイプを打ち破るための実践的な戦略を、具現化することになるだろう。
女性解放は、短期的にも長期的にも、政治的な意味を持つ。女性の地位を変えることは、単にそれ自体として一つの政治的目標であるのみでなく、意識と社会の構造における急進的な変化——私が革命的社会主義という言葉で意味するもの——を準備し、かつその一部を構成する。女性解放が、こうして定義された社会主義の到来を待たねばならない、というのではない。女性解放は、待つことができないのである。
社会主義は、まずフェミニズムの大きな勝利なしには、勝利しえないと私は考える。女性解放は、正義の社会を構築するための必要な準備段階である——マルクス主義者たちがつねに主張するような、その逆ではない。なぜなら、もし順序が逆になるなら、女性が自らの解放を欺瞞として見なす可能性は高いからだ。革命的社会主義による社会の変革が、それに先立つ独立した戦闘的な女性運動なしに着手されるならば、女性たちは、自由を侵害する一つの倫理的覇権を、別のものと単に取り替えただけだったことに気づくだろう。
8. あなたは、家族は女性解放の障害であると考えますか。
たしかに、近代の「核家族」は、女性を抑圧するように機能している。そして、家族が歴史上、周知のように取ってきた他の諸形態、また「ヨーロッパ」型社会の外でいまなお取り続けている形態にも、慰めはほとんど見いだせない。知られているほぼすべての形態において、女性は男性に従属する者として定義されている——女性は「家庭」のうちに留め置かれ、その一方で公的領域における権力は、家族の外で男性のみの集団を組織する男性の手に、排他的に握られている。人間の生のクロノロジーにおいて、家族は性差別の最初の学校であり、心理学的観点から見て最も反駁の余地のない学校でもある。依存とナルシシズムを規範として少女へ刷り込むのは幼年期だ——少女と少年とで、服装、話しかけ方、称賛と罰のあり方が、組織的に異なるからである。成長するにつれて、子どもたちは、母と父というモデルから、自分に何が期待されているかを学び取っていく——家事という日常への女性と男性の献身が描く、その根本的に異なる地理から。
家族とは、家庭空間の専従の居住者としての女性の搾取を、その要石とする制度である。それゆえ、女性にとって労働とは、抑圧の一部からの解放を意味する。ひとたび何らかの有償の職を得れば、女性はもはや単なる家族の生き物ではなくなる。とはいえ、ほぼフルタイムに等しい家事の負担を免除されないかぎり、彼女はなおも、その役割において、パートタイムで搾取され続けることができる。「世間」へ出る自由を獲得しながらも、夜に帰宅すれば買い物・炊事・家事・育児の責任をなお負わされている女性たちは、自分の労働時間を二倍にしただけにすぎない。これこそが、資本主義国であれ共産主義国であれ、働く既婚女性のほぼ全員が置かれている過酷な状況である。(この二重労働の専制は、ソヴィエト連邦において特に顕著だ。女性に開かれた職種が、たとえばアメリカ合衆国よりも幅広く、消費社会への参入がきわめて最近であり、しかも「サービス」構造の欠如が著しいためである。)妻が夫と同じくらい評価の高い、あるいは身体的に過酷な職に就いている場合でさえ、夕食を作り、後片付けをするのが妻であり、その間に休むのが夫である——これが夫には(たいてい妻自身にも)至極当然に思える。この搾取は、就労する女性の数が増えても、彼女たちの職業的活動が「女性的」な役割をいっそう問い直さないかぎり、存続し続けるだろう。
女性が得る職の大半が「女性的」な適性に合うよう設計されているがゆえに、男性も女性も、たいていこの「女の仕事」と、家庭で果たすことが期待される伝統的に女性的な活動(助手、看護師、料理人)とのあいだに、何の矛盾も見いださない。女性が大挙してあらゆる種類の職業に就くようになって初めて、夫は妻にほぼすべての家事を委ねるのを、もはや自然とは思わなくなるだろう。一見、二つの異なる要求に見えるものは、合わせて提示されねばならない——職の幅における性別による決定の廃止と、伝統的に「女性的」とされてきた家事労働の、男性による完全な分担とである。この二つの要求は、激しい抵抗に突き当たる。男性たちはこれらを当惑させるもの、脅威と感じる。とはいえ近年、彼らは前者よりも後者により強く困惑しているように見える——これは、家族の文法が(言語そのものと同様)性差別的前提のもっとも難攻不落でもっとも執拗な要塞であると証明する。
女性を抑圧しない家庭の組織においては、男性はすべての家事活動に参与するだろう。(そして女性には、家族とは無関係な「外部」の責務に、相当な時間を割くことが期待される。)しかし、解決策は男性の参与の度合いを調整することだけにとどまってはならない——理想は、労務と責任の平等な分担である。これらの活動そのものが、根本的に再考されねばならない。家族は閉ざされた細胞である必要はなく、家事に含まれる労務は、その内部だけで分担される必要もない。多くはむしろ、共同の空間においてより効率的かつ快適に遂行されうるだろう——前近代社会において、まさにそうであったように。各家庭が(可能であれば)自分専用のベビーシッターやお手伝いを抱えても、実質的な利点は何もない——妻が担う非公式・無報酬の召使い役を分担あるいは代行するために雇われる、自営の女性たちにすぎない。同様に、一家族が自分専用の洗濯機・自動車・食器洗浄機・テレビなどを所有する理由は、(利己心や恐れを除けば)何もない。諸国が前近代的経済から工業化と消費社会へと移行するにつれ、(主に女性による)個人的な家事使用人は、最も富裕な層を除けば姿を消しつつある一方で、機械による私的サービスの増殖が見られる。これらの新しい機械の大半は、それを購入する「個別」家族にとって、消費社会への信仰を封印する最初の品々となっている。だが、それらは同様に、複数の家族集団による共有財産となることもできたはずだ——それによって不必要な労働の重複を減らし、競争心、所有欲、廃棄物を抑制しながら。家事労働の民主化は、妻と夫、母と父という役割の、抑圧的な定義を変えるために必要な段階の一つである。それはまた、すべての近代産業社会において築かれてきた壁——微小な家族細胞を密閉された容器のように機能させ、その結果、各家族の構成員に破壊的な心理的緊張を負わせている壁——を打ち壊す一助となるだろう。
近代の「核家族」は、心理的かつ道徳的な災厄である。性的抑圧が支配する牢獄であり、道徳的不整合に満ちた遊戯場であり、所有欲の博物館であり、罪悪感を生産する工場であり、利己主義の学校である。とはいえ、積み重ねられた不安と悪意ある感情という恐るべき代償を払いながらも、家族はいくつかの肯定的な経験をも許容している。ジュリエット・ミッチェル¹が指摘したように、家族はしばしば、とりわけ今日の資本主義社会において、疎外なき人格的関係(優しさ、信頼、対話、競争の不在、忠実さ、自発性、性的快楽、そして愉しみから成る)が許される、唯一の場所である。それゆえ、「家族は神聖である」が資本主義社会のスローガンの一つであるとしても、何の不思議もない——労働においても、他のあらゆる集団的関係においても、最大の疎外を助長する、この社会形態において。(このスローガンにおける「家族」とは、明示されてはいないものの、家父長的な核家族のみを指している。)家庭という枠組みは、都市的産業社会が掘り崩しながらも、その保存の手段を見いださねばならない、あの「人間的規模」の価値の、時代錯誤的な保護区である。
生き残るために——言い換えれば、市民から生産性と消費への欲求を最大限に引き出すために——資本主義(そしてその従兄弟であるロシア型共産主義)は、非疎外的な諸価値を、限定された形であれ存続させなければならない。それゆえ資本主義は、経済的にも政治的にも無害な制度のうちに、これらの価値へ特権的、あるいは保護された地位を与えるのである。
これこそが、近代核家族を支配するイデオロギー的な秘密である——あまりに小さく、あまりに縮減され、その居住空間(典型的には都市部の三、四室のアパート)にあまりに閉じ込められているがゆえに、独立した経済単位として、あるいは権力の源泉と政治的に結びついた単位として存在しえない、家族という単位。近代の初頭において、家庭はもはや祭壇と儀礼を収容する場ではない。宗教的機能は「教会」の独占物となり、家族の構成員たちは、各自一時的に自宅を離れることによって、個人として宗教活動に参加する。十八世紀末以来、家族は、子どもの教育(あるいは非教育)に対する権利を、中央集権国家へ譲り渡すよう強いられてきた。国家は「公立学校」を管理し、子どもたちは個人として、法的にその通学を義務づけられている。核家族とは、無用の家族である——都市産業社会の理想的な発明品。その機能は、これに尽きる——無用たること、避難所たること。経済的、宗教的、教育的なあらゆる役割を剥奪され、それは、冷たい世界における情緒的な慰めの源泉としてのみ、存在している。
その神聖視は、たんに露骨な偽善であるだけではない。それは、資本主義社会のイデオロギーと機構における、重大な構造的矛盾をも露わにする。近代家族のイデオロギー的機能は、操作的たること——より正確には、自己操作的たることにある。これは、家族内部の生がまったく欺瞞的であるという意味ではない。核家族は、真正な価値を体現している。実のところ、今日繁栄しているこの貧困化した家族の形態が存在しなかったならば、人々の生はいっそう疎外されたものになっていただろう。しかし、この戦略が永遠に機能し続けるわけではない。家族が保存を委ねられている諸価値と、産業大衆社会全体が推進する諸価値とのあいだの矛盾は、最終的には維持しえない。家族は、現代的な形態において自らの存在を正当化する、課せられた任務を果たす能力を、ますます失いつつある。産業社会の核心における道徳の博物館としての家族の機能は、いまや完全に崩壊しつつある——その内部においてさえ、「人間的規模」の価値は崩れ去っていく。産業大衆社会は、非疎外の価値を、(定義上)非政治的な制度のうちに、安全な場所として収めておきたいと望む。しかし、安全な場所など、どこにもない。「外部」世界の酸はあまりに強力であり、家族は社会によって汚染され、いよいよ毒されていく——社会は、たとえば、どの居間にも置かれたテレビの均質化された声を通じて、直接に侵入してくるのだ。
家族が権威主義的だという口実のもとでその「破壊」を説くのは、単純化されたクリシェへの屈服にほかならない。歴史を通じて家族が抱えてきた欠陥は、権威主義そのものではなく、問題となっているその権威が所有関係の上に築かれている、という点にある。夫は妻を「所有」し、親は子を「所有」する。(これは、女性の地位と子どもの地位とのあいだに見られる、数多くの類似性の一つにすぎない。それゆえ、その構成員が大人として、つまり自分自身に身体的責任を負う者として定義されている性は、沈みゆく船から「まず」退避すべき者として、騎士的にも「女性と子ども」を強いるのである。スペインでは、いかなる既婚女性も、夫の書面による許可なしには働くことも、銀行口座を開くことも、パスポートを申請することも、契約に署名することもできない——子どもとまったく同様にである。女性は、子どもと同様、本質的に未成年者の地位を持つ。彼女たちは、子どもが親の被後見人であるように、夫の被後見人なのである。)北欧・北米的なリベラルな形態の近代核家族のうちにおいてさえ、女性と子どもは、それほど露骨ではないにせよ、なおも所有物として扱われ続けている。
所有に基づく家族こそが、標的とされなければならない——何者も所有物として扱われるべきではなく、いかなる大人も未成年者として扱われるべきではない。家庭という枠組みのなかで、一定の権威の形態が意味を持つとしても、問題は、いずれの権威か、である。そしてこの点において、すべては、権威がその正当性を見いだす基盤に左右される。女性解放を目指す家族の再編は、家族組織における利用可能な権威から、その主たる正当性の形態の一つを——すなわち男性が女性に対して行使する権威を——取り除くことを意味する。家族が、女性への抑圧がそもそも体現される制度であるとしても、その抑圧の除去が家族そのものの解体を意味するわけではない。そして性差別のない家族もまた、いかなる正当な権威の観念も奪われたものとはならない。家族組織が、もはや性別によって命じられる階層秩序ではなくなったとき、年齢の差異によって命じられる、いくつかの階層的属性は依然として残るだろう。性差別のない家族は「開かれた」ものとなるが、それによって完全に脱構造化されるわけではない。
まさに、家族が特異な制度——現代社会があくまで「私的」なものとして定義しようとする唯一の制度——であるがゆえに、家族の再編は、きわめて繊細な企てとなる。それは、他の制度に適用できるような事前計画の手法には、なじみにくい。(たとえば、学校を性差別のないものに、また他の点でより権威主義的でないものにするための行動は、はるかに明確である。)家庭という枠組みの再編は、新しい——とはいえつねに小規模な——共同体の形態を整備していく過程のうちに位置づけられなければならない。フェミニズム運動が特に有用であり得るのは、まさにこの点においてである——今日の社会という文脈において、集団生活の新たな実践の発展への道を開く、代替的な諸制度を生み出すことによって。
いずれにせよ、家族に関して、命令によって為しうることは何もない。そして、家族が何らかの形で存続し続けるのは確実である。望ましいのは、家族の廃絶ではなく、(とりわけ資本主義諸国に深く根づいている)「家庭」と「世間」との対立の廃絶である。なぜなら、この対立は退廃的だからだ。それは女性(と子ども)を抑圧し、新しい社会がその上に築かれうるはずの、姉妹的、あるいは兄弟的な共同体感情を、窒息させ、あるいは枯渇させる。
¹〔訳注〕ジュリエット・ミッチェル(Juliet Mitchell)——イギリスの精神分析的フェミニズム理論家。『女性の地位』(Woman's Estate, 1971)などの著者。
9. フェミニズムの闘いの目標のなかで、要求に応じた中絶の権利に、あなたはどのような位置を与えますか。
中絶の合法化は改革主義的要求である——未婚の母および「非嫡出子」とされる子どもへの烙印の終焉、働く母のための無償の保育施設の設立と同様に——それゆえに、疑わしい要求でもある。歴史が示すところでは、女性の怒りは、改革主義的要求のみによって水路づけられたとき、あまりにも容易く無力化されてしまう(第一次世界大戦後に投票権が獲得されたのち、イギリスとアメリカの婦人参政権運動に起きたことがそうであるように)。この種の改革には、戦闘的なエネルギーを制限し、その後それを突然に消散させてしまう傾向がある。それらが、抑圧する者たちの不幸の一部を軽減することによって、抑圧的体制そのものを強化すると言うこともできる。ラテン諸国においてとりわけ熱烈に予感されていることとは裏腹に、中絶の権利を認めること——離婚の権利、そして合法的かつ手頃な避妊の権利と同様に——は、結婚と家族の体制をそのまま保存する助けとなるだろうと考えるほうが、より説得力を持つ。その意味において、こうした改革は実際には男性の権力を強化する。なぜなら、それらは、この社会において正常と見なされている女性の搾取に属する、放埓なセクシュアリティを、間接的に承認することになるからだ。
とはいえ、これらの改革が、富裕な特権層を除くすべての、数億の女性たちの具体的かつ切迫した必要に応えるものであることは、変わらない。そして、彼女たちの状況を改善することは、女性運動内部に適切な理論的意識があるかぎり、さらなる要求へとつながりうる。このように政治的射程が議論の余地を残し、かつ限定された目標の実現のために闘うことの価値は、その闘いがどこで行われるかに、大きく依存するだろう。一般的に言えば、闘いが困難であればあるほど、それを政治化する可能性は大きくなる。したがって、避妊と中絶の合法化を求める運動は、ノルウェーやオーストラリアよりも、イタリアやアルゼンチンにおいて、より大きな政治的次元を帯びる。人道的・生態学的観点からの計り知れない魅力にもかかわらず、避妊の権利そのものには、いかなる政治的内実もない。それに対して、それが、自らの抑圧についてまだ意識的に考え始めていない多数の女性たちを動員しうる、一連の要求と行動の鎖のなかの一段階として捉えられるとき、それは選び取るべき要求となる。これらの権利のいずれかを単に獲得したからといって、女性の状況に変わるものは何もない。たとえば、スペインでは離婚がほぼ不可能であるのに対し、メキシコでは容易であるという事実は、メキシコの女性の状況をスペインよりはるかに望ましいものにするわけではない。しかし、これらの権利のための闘いは、より深い闘いへの準備における、重要な一段階を成しうる。
10. まさに「解放された女性」であるあなたは、自分に対する男性の態度を、どのように感じていますか。
私は自分を「解放された女性」と呼ぶことなど、決してしないだろう。事は、当然ながら、けっしてそれほど単純ではない。しかし私は、つねにフェミニストであった。
五歳のとき、私は生化学者になり、ノーベル賞を獲ることを夢見ていた。(マリー・キュリーの伝記を読み終えたばかりだったのだ。)十歳になるまで、私は化学への忠誠を貫いた。その年齢で、私は医師になろうと決めた。十五歳のとき、私は自分が作家になることを知っていた。要するに——女性として生まれたという理由で、「世間」において何かを成し遂げることを妨げられるかもしれない、という考えが、私の頭をよぎったことは一度もなかった。おそらく、それは、病弱だった子ども時代の大半を、アメリカのきわめて地方的な一角にある空っぽのガレージに自分で設えた化学実験室で、読書をしながら過ごしたからだろう。「亜核家族」とでも呼びうるほど縮小した家族の一員であった私は、いかなる障壁の存在に対しても、奇妙なほど無邪気だった。十五歳で家を出て大学へ進み、いくつかの経歴を歩み始めたとき、職業生活において私が男性たちと結んだ関係は、いくつかの例外を除けば、温和で平穏なものに思われた。だから私は、そこに問題があることを知らないまま、自分の道を進み続けた。自分がフェミニストであることさえ私は知らなかった——この視点がいかに当時流行から外れていたかは、十七歳で結婚し、自分の姓を維持したときの私を見れば分かる。それは、まったく同様に「個人的な」行為として私の目に映った——七年後に離婚し、当時すでに一文無しで、住む家も、仕事もなく、六歳の子を抱えていたにもかかわらず、弁護士が自動的に申請していた扶養手当を、原則として憤然と拒んだときも。
折々、私が出会う人々のなかには、女性であり同時に独立しているということに伴うとされる困難について、ほのめかす者がいた。私はつねに驚いた——そして時には苛立った。なぜなら、彼らを鈍いと感じたからだ。私にとって、その問題は存在しなかった——ただ、他の女性たち、つまり学歴を持つ専業主婦であり、男性の同僚たちの妻である人々から、時おり感じ取った羨望と恨みのなかにだけ、それは存在した。私は自分が例外であることを意識していた。だが、それが困難であるとは、一度も思わなかった。そして私は、自分が享受していた利点を、当然の権利として受け入れていた。今の私は、もっと分別を持っている。
私の事例は、特異なものではない。それほど逆説的でもないことに、大多数の女性が解放されていないリベラルな社会において「解放された」女性の地位は、当惑させられるほどに容易いものでありうる。十分な才能と、晴れやかなコンプレックスの欠如とがあれば、自律を執拗に要求する女性が直面する可能性の高い、最初の障害物や嘲笑をすら(私がそうしたように)免れることができる。そのようにすれば、女性は、独立した生を営むことをさほど困難とは見いださないかもしれない——たとえばより大きな可視性といった、職業上のいくつかの利点さえ、そこから引き出すことができるだろう。彼女の幸運は、進歩的でありながらいまなお人種差別的な社会において、一部の黒人が経験する幸運と、似たものとなるだろう。いかなる進歩的な集団も(政治的、職業的、芸術的のいずれであれ)、体裁のためにそこに置かれる「アリバイの女」を必要としている。
過去五年間に、私は——女性運動の助けを得て——自分の個人的経験を政治的な展望のうちに位置づけることを学んだ。私が得た幸運は、実際には主題から外れている。それは何を証明するのか。何も証明しない。
すでに「解放された」女性でありながら、自らの特権的な状況を心地よく受け入れる者は誰であれ、他の女性たちへの抑圧に加担している。私は、芸術や科学、専門職、そして政治においてキャリアを持つ女性たちの圧倒的多数が、まさにそれを行っていると、告発する。
私はしばしば、成功した女性たちのミソジニーの度合いに驚かされてきた。彼女たちは、聞く耳を持つ誰にでも、他の女性たちが自分の目にいかに愚かで、興味を引かず、浅薄で、退屈に見えるか、そして自分が男性の伴をいかに好むかを、好んで語る。その男性たちの大多数が、女性を根本的に軽蔑し、恩着せがましく扱うのと同様に、多くの「解放された」女性たちも、他の女性を好まず、あるいは尊重しない。彼女たちは、他の女性を性的な競争相手として恐れないとしても、キャリア上の競争相手として恐れる——なぜなら、彼女たちは、大半が男性の世界に受け入れられた女性という、自らの特殊な地位を保持することに執着しているからだ。「解放された」とされる女性たちの大半は、恥知らずな「アンクル・トム」¹であり、男性の同僚たちに媚びる用意をつねに整え、彼らの共犯者となる——より成功していない他の女性たちを貶め、自分自身が女性であるがゆえに遭遇した困難を不誠実に過小評価することによって。その振る舞いによって、彼女たちは次のことを暗示する——すべての女性は、もし本当に努力すれば、自分たちが為したことを為すことができるのだ、と。男性によって築かれた障壁は脆弱なのだ、と。前進を妨げているのは、主として女性自身なのだ、と。これは、まったく単純に誤りである。
「解放された」女性の第一の責務は、可能なかぎり充実した、自由で、想像力に富んだ生を生きることである。その第二の責務は、他の女性たちと連帯することである。彼女は、男性たちとともに生き、働き、おそらく愛も交わすだろう。しかし彼女には、自らの状況を、実際よりも単純で、疑わしさが少なく、妥協に満ちていないものとして示す権利はない。男性たちとの良好な関係は、姉妹たちへの裏切りという代価によって買い取られてはならない。
(一九七三年)
¹〔訳注〕「アンクル・トム」——ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』(一八五二年)の主人公の名に由来し、抑圧者に従順に協力する被抑圧者を指す蔑称として用いられる。

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