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スーザン・ソンタグ『女性論』より「老いのダブルスタンダード」試訳全文

  • 執筆者の写真: Koki EBATA
    Koki EBATA
  • 6月15日
  • 読了時間: 47分

「おいくつですか」

問いかけるのは誰でもありうる。答えるのは女性、フランス人が遠回しに言うところの「ある年齢」に達した女性である。その年齢とは、二十代前半から五十代後半まで、どの地点を指していてもおかしくはない。もしそれが、運転免許証やクレジットカード、パスポートの申請といった、事務手続き上の問いであれば、彼女は自らを強いて正直に答えるだろう。婚姻届の記入で、将来の夫が自分よりわずかでも年下であれば、数歳を差し引きたい誘惑に駆られるかもしれない──もっとも、実際にはそうはしないだろうが。職務上の能力を備えていても、採用されるかどうかはしばしば「ふさわしい年齢」に左右される。そのため、もしうまく誤魔化せると判断すれば、彼女は年齢を偽るだろう。初めて訪れる医師の前では、問いを向けられた瞬間、とりわけ無防備な状態にあるなら、おそらく正しい回答を急ぐはずだ。ところが、いわゆる私的な問いとして──新しい友人、ちょっとした知人、近所の子ども、職場や店や工場の同僚から──聞かれる場合、彼女の反応は予測しにくくなる。冗談でかわすかもしれないし、おどけた調子で憤って見せて断るかもしれない──「女性に年齢を尋ねてはいけないと知らないの?」。あるいは、一瞬ためらい、気まずさを感じながらも強がって、真実を告げるかもしれない。嘘をつくかもしれない。だが、真実であれ、ごまかしであれ、嘘であれ、その問いがもたらす不快感は解消されはしない。「ある年齢」を過ぎた女性にとって、年齢を口にするよう強いられることは、つねに小さな試練なのである。

相手が女性であれば、男性に聞かれるときほど脅威を感じないだろう。他の女性たちは、つまるところ、同じ屈辱に晒される可能性を共有する仲間なのである。彼女も、そこまで気取ってみせたり、媚びた態度も取らないだろう。それでも、答えたがらず、真実を言わないかもしれない。行政上の手続きを除けば、「ある年齢」を過ぎた女性にこの問いを発する者は、誰であれタブーを侵しており、無礼であるか、あるいは露骨な敵意を示していることになる。誰もが認めることだが、実際にはきわめて若い段階で、女性の正確な年齢は、もはや好奇心の正当な対象ではなくなる。子供時代を過ぎれば、女性の生年は彼女の秘密、専有物となる。それはいわば後ろ暗い秘密である。正直に答えるのは、つねに慎みに欠ける振る舞いとされる。

女性が年齢を告げるたびに覚える不快感は、時として誰もが抱く死への不安とは、まったく別の次元にある。年を重ねることを好ましく思わぬ感覚は、男女に共通する正常な感覚ではある。三十五歳以降、年齢を口にすれば、人生の始まりよりも終わりに近づいているという事実を想起させずにはおかない。その不安を抱くことは、少しも不合理ではない。また、七十代や八十代に達した人びとが、身体的・精神的能力の仮借ない衰えに対して感じる苦悩や怒りも、何ら異常ではない。老年とは、いかにストイックに耐えようとも、紛れもなく試練である。高齢者がいかなる勇気をもって航海を続けようと、それは難破である。だが、老年に伴う客観的で神聖な苦しみは、年を重ねることに対して抱く主観的で世俗的な苦しみとは、位相を異にする。老年は、男女が同じように経験する真の試練である。これに対して、年を重ねることは主として想像力の試練──道徳的な病、社会的な病理──その本質的な契機として、女性を男性よりもはるかに苦しめるという事実が組み込まれている。実際に老いる前の段階(すなわち老年に至るまでのあらゆる変化)を、嫌悪、さらには羞恥をもって経験するのは、とりわけ女性なのである。

この社会が若さに与えている情緒的特権は、誰の心にも年を重ねることへの不安を呼び起こす。近代的な都市社会はすべて──部族社会や農村社会とは異なり──成熟の価値を見くびり、若さの歓びにあらゆる栄誉を与える。若さを優遇するこの生の再評価は、際限のない産業的生産性と自然の無制限な蕩尽を理念とする世俗社会に、見事に適合している。こうした社会は、人びとにより多く買わせ、より速く消費させ、廃棄させるために、生のリズムをめぐる新たな感覚を作り出さなければならない。人びとは、自らの欲求や純粋な喜びについての直接的な認識を、商品化された幸福や個人的充足のイメージに取って代わらせる。そして、絶えず消費欲をかき立てるべく設計されたこのイメージのなかで、幸福の最も一般的な隠喩となるのが「若さ」である。(ここで強調しておきたいのは、これは文字どおりの意味ではなく、あくまでも隠喩であるという点だ。若さとは、エネルギー、絶え間ない流動性、そして「何かを求めつづける」欲望の状態の隠喩なのである。)このように幸福と若さが同一視されるため、人びとは自分や他人の正確な年齢を、執拗に意識させられる。原始的・前近代的社会では、人びとは日付にさほど重きを置かない。安定した責任と揺るぎない理想(そして偽善)によって人生が長い期間に区切られているとき、ある人が何年生きたかという正確な年数は取るに足りない事実となり、生まれた年を話題にしたり、ましてや知ったりする理由などほとんどない。非産業社会の大半の人びとは、自分が正確に何歳であるかを知らない。産業社会の人びとは数に取り憑かれている。彼らは加齢というスコアカードの記録に強迫的なまでの関心を抱き、わずかでも低い合計点は何らかの悪い知らせだと確信している。平均寿命が伸び続けている現代に、今や人生の後半三分の二を占める歳月は、絶え間ない喪失という痛切な予感に侵されている。

若さのもつ威信は、程度の差こそあれ、この社会のあらゆる人びとを苦しめる。男性もまた、仕事で不安を感じたり、達成感を欠いたり、十分に報われていないと感じたりするとき、加齢をめぐって周期的な抑うつ状態に陥りやすい。しかし、女性がしばしばそうなるように、年を重ねることにパニックを起こす男性は稀である。男性にとって、加齢はそれほど深い傷にはならない。なぜなら、年を重ねるにつれて男女を等しく守りに入らせる「若さのプロパガンダ」に加え、女性を特に厳しく弾劾する「老いのダブルスタンダード」が存在するからだ。社会は、夫たちの性的不貞に対して寛容であるのと同様、男性の加齢に対しても寛大である。男性は、女性には許されていない複数の仕方で、何ら不利益を被ることなく年を取る「許可」を与えられているのである。

この社会が、女性が年を重ねることに与える見返りは、男性の場合よりもさらに乏しい。身体の魅力は男性の人生よりも女性の人生において遥かに重要だが、女性にとっての美は若さと同一視されるがゆえ、歳月には堪えられない。卓越した知的能力は年齢とともに高まる場合もあるが、女性がその知性を、アマチュア的教養の水準を超えて発展させるよう促される例は稀である。女性に特有の領域とされる知恵は──「永遠のもの」直感的認識と感情の産物であり、事実の蓄積も、世俗的経験も、合理的分析の方法も、何ら寄与するところのない──とみなされているため、長命が女性に知恵の深化をもたらすわけでもない。女性に期待される私的な技能は早くから行使され、愛の営みの才能を除けば、経験によって拡張される類のものではない。「男性性」は能力、自律性、自制心と同一視されるが、これらの資質は若さが失われても脅かされない。スポーツを除けば、男性に期待される大半の活動における能力は、年齢とともに向上する。「女性性」は無能さ、無力さ、受動性、非競争性、感じのよさと同一視されるが、これらの資質は、年齢によって向上しない。

中産階級の男性は、まだ若いうちであっても、キャリアで頭角を現していなかったり、大金を稼いでいなければ、加齢で自分の価値が損なわれるように感じる。(心気症的傾向があれば、それは中年期に悪化し、心臓発作の影や性的能力の喪失に対して、とりわけ神経質に向かうようになる。)彼らの加齢の危機は、まさに中産階級への所属を定義づける、男性に「成功」を迫るあの凄まじい圧力と結びついている。女性が何かを成し遂げていないという理由で年齢に焦りを感じる例は稀である。女性が家庭の外で行う仕事は、達成の形式として認められることはほとんどなく、単に金を得る手段としてしか評価されない。女性に開かれている雇用の大半は、幼少期から植え付けられてきた、奉仕的・依存的・冒険を好まない資質を、主に搾取するものだからだ。軽工業における単純で低技能の職に就くこともできるが、それらは家事と同様、成功の基準としてはきわめて心もとない。秘書、事務員、販売員、家政婦、研究助手、ウェイトレス、広報担当者、看護師、教師、電話交換手——これらはいずれも、家庭生活において女性が担う奉仕や養育の役割が、公的領域に転写されたにすぎない。管理職に就く女性はきわめて少なく、企業や政治における大きな責任にふさわしいと見なされる例も少なく、(教育を除いた)自由専門職に占める割合も、ごくわずかである。機械との高度で親密な関係を要する仕事、身体を攻撃的に駆使する仕事、身体的危険や冒険性を孕む仕事からは、事実上排除されている。この社会が女性にふさわしいとみなす仕事は、男性の仕事と競合するのではなく、それを補佐する補助的で「穏やかな」活動である。低賃金であるうえ、女性の仕事の多くは昇進の上限が低く、力を持ちたいという正当な欲求のはけ口も乏しい。この社会において女性が傑出した仕事を成し遂げるとすれば、それはすべて自発的意志による。多くの女性は、野心的・攻撃的であることに向けられる社会的非難によって萎縮を余儀なくされているからだ。必然的に、女性たちは、自らの「達成」が取るに足りなく思え、昇進の階段で立ち往生し、より若い者に蹴落とされるのではないかと怯える中年男性の陰鬱なパニックから免れている。だが同時に女性は、男性が仕事から得る真の充足——しばしば加齢とともに増していくあの充足——の大半をも奪われてもいるのである。

老いのダブルスタンダードは、性的感情をめぐる慣習においてもっとも露骨に現れる。そこでは、男女のあいだの格差が恒常的に前提とされ、つねに女性に不利に作用している。世間で当然とされる成り行きでは、十代後半から二十代半ばにかけての女性は、おおむね同年代の男性を惹きつけられると見込まれている。(理想的には、女性のほうがわずかに年下であるべきとされる)。ふたりは結婚し、家庭を築く。しかし、結婚後数年を経て夫が婚外関係を持つ場合、その相手はたいてい妻よりもはるかに若い女性である。仮に夫婦がともに四十代後半から五十代前半で離婚したとする。夫が再婚できる見込みがきわめて高く、おそらくより若い女性と結婚する。元妻は再婚が難しい。自分より若い男性を次の夫として惹きつける見込みはまずなく、同年代の相手を見つけるにも運が必要で、六十代か七十代のかなり年上の男性で妥協せざるをえないだろう。女性は男性よりもはるかに早く、性的な相手として選ばれる適格性を失う。男性は、容姿に恵まれていなくとも、老年に至るまでその適格性を保ちうる。若く魅力的な女性にとって受け入れ可能な相手でありうる。これに対し女性は、容姿に恵まれていようとも(非常に高齢の男性の相手としての場合を除いて)はるかに若い年齢でその適格性を失う。

かくして、大半の女性にとって、年を重ねることは性的な相手としての適格性を徐々に失う屈辱的な過程を意味する。女性は若年期に性的相手としてもっとも適格とみなされ、その後、性的価値は着実に低下していくと考えられているため、若い女性でさえ、カレンダーとの必死の競走に追い込まれているように感じる。十分に若くなくなったその瞬間、彼女たちはすでに老いているのである。思春期後半には、すでに結婚を気に病みはじめる少女もいる。少年や若い男性が、加齢による困難を予期する理由はほとんどない。男性が女性にとって魅力的であるかどうかは、決して若さと結びついてはいない。それどころか、年を重ねることは(数十年にわたって)男性に有利に作用する傾向がある。恋人や夫としての価値は、外見よりも、彼らが何をしているかによって決まるからだ。多くの男性は、二十歳や二十五歳の頃よりも四十代になってからの方が、恋愛面で成功する。名声、富、そして何より権力は、性的魅力を増幅させる。競争の激しい専門職やビジネスの世界で権力を手にした女性は、魅力が増すどころか、むしろ低下するとみなされる。大半の男性は、こうした女性に気後れするか、性的関心をそがれると認める──明らかに、彼女を単なる性的「対象」として扱いにくくなるからだ。年を重ねるにつれ、男性は実際の性行為の遂行に不安を感じ始め、性的活力の低下や不能を懸念するようになるかもしれない。しかし彼らの性的適格性は、ただ老いるという理由だけで制限されることはない。男性は、性行為が可能なかぎり、性的な相手としての資格を保ちつづける。女性が不利な立場に置かれているのは、彼女たちの性的候補性が、容姿と年齢に関わるはるかに厳しい「条件」を満たすことに左右されるからである。

女性の性生活は男性のそれよりはるかに限定的だと想定されているため、未婚の女性は憐れまれる。彼女は受け入れられなかったのだと見なされ、その後の人生もまた彼女の受け入れがたさを裏付けていると解釈される。性的機会を欠いているという推定は、気まずさを伴う。独身のままでいる男性は、それほど粗雑に裁かれない。年齢にかかわらず、彼にはなお性生活がある──あるいは少なくともその機会がある──と想定されているからだ。男性には、オールドミスや老嬢という屈辱的な境遇に相当する運命がない。幼年期から老年期までを一括して覆う「Mr.」という呼称は、もはや若くないにもかかわらずなお「Miss」である女性に付きまとう烙印から、男性を正確に免除する。(女性が「Miss」と「Mrs.」に区分され、それぞれの女性の婚姻状態に絶えず注意が向けられるのは、独身か既婚かという問題が、男性にとってよりも女性にとってはるかに決定的な意味をもつという考えを反映している。)

もはや十分に若くはない女性にとって、ついに結婚できたとき、たしかにいくらかの安堵がある。結婚は、過ぎゆく歳月がもたらす最も鋭い苦痛を宥める。しかし不安が完全に鎮まることはない。離婚、夫の死、あるいは性愛の冒険への欲求によって、いずれ再び性的な市場に戻ることがありうると、彼女は知っているからだ。そのとき彼女は、同年齢のどの男性よりもはるかに大きな不利を負って——年齢がいくつであろうと、容姿がどれほど優れていようとも——その市場へ戻らなければならない。キャリアを持っていたとしても、その達成は何の資産にもならない。カレンダーこそが、最後の審判者である。

もっとも、そのカレンダーは国によって多少の違いがある。スペイン、ポルトガル、ラテンアメリカ諸国では、大半の女性が身体的にまったく望ましくないとされる年齢が、アメリカよりも早い。フランスでは、それはいくらか遅い。フランスの性的感情の慣習は、三十五歳から四十五歳の女性に、準公的な地位を与えている。彼女の役割は、経験の浅い、あるいは内気な若い男性に手ほどきをすることであり、そのあとは当然若い娘に取って代わられる。(コレットの中編小説『シェリ』は、この種の恋愛をフィクションのなかで最も周知された形で描いた作品であり、バルザックの伝記には、実生活における十分に裏づけられた例が記されている。)こうした性的神話は、フランス人女性が四十歳を迎えることをいくらか容易にする。しかし、女性を男性よりもはるかに早く性の適格者から外す基本的な態度においては、これらの国々のあいだに違いはない。

年を重ねることの現れ方は、社会階層によっても異なる。貧しい人びとは富裕な人びとよりもはるかに早く老けて見える。しかし、加齢への不安は、労働者階級の女性よりも、中産階級や富裕層の女性において、より一般的で、より深刻である。この社会で経済的に恵まれない女性は、加齢を、より宿命論的に受け止める。美容をめぐる闘いを、それほど長く、あるいは執拗に続ける余裕がないのだ。実際、この危機の虚構的な性格をこれほど明確に示すものはない。すなわち、最も長く若々しさを維持できる女性たち──身体的に保護された負担の少ない生活を送り、バランスのとれた食事をとり、質の高い医療を受ける余裕があり、子どもが少ないか、あるいはいない女性たち——こそが、年齢による敗北を最も鋭く感じ取るのである。老いは、生物学的な出来事というより、はるかに社会的な判断である。更年期に経験される厳しい喪失感(長寿化にともなってますます遅く訪れる傾向にある)よりも、はるかに広範に及ぶのが、年を重ねることをめぐる憂鬱である。それは女性の人生における現実の出来事によって引き起こされるとは限らず、社会によって定められた、彼女の想像力を周期的に占拠する「憑依」の状態——すなわち、この社会が、女性たちが自分自身を自由に想像することをどのように制限しているかによって定められた状態——である。

リヒャルト・シュトラウスの感傷的かつ皮肉なオペラ『ばらの騎士』には、加齢の危機をめぐる典型的な描写がある。主人公は、恋愛を放棄しようと決意する裕福で華やかな既婚女性だ。自分を慕う若い恋人と一夜を共にしたのち、元帥夫人マルシャリンは、不意に自分自身と向き合う。第一幕の終わり近く、オクタヴィアンが去った直後である。寝室で一人になった彼女は、毎朝そうするように鏡台の前に座る。すべての女性が日々行う、自分評価の儀式である。彼女は自分を見つめ、愕然として涙をこぼす。彼女の若さは終わったのだ。ここで注目すべきは、元帥夫人が鏡のなかに醜さを発見するわけではないという点だ。彼女は依然として美しい。元帥夫人の発見は道徳上のもの——すなわち、彼女自身の想像力における発見であり、彼女が実際に目にしているものではない。にもかかわらず、その発見は彼女を打ちのめさずにはおかない。彼女は勇気をもって、苦痛に満ちた、気高い決断を下す。愛するオクタヴィアンが、彼と同年代の娘と恋に落ちるよう取り計らうのだ。現実を受け入れなければならない。彼女にはもはや適格性がない。いまや彼女は「老いた元帥夫人」なのである。

シュトラウスがこのオペラを書いたのは一九一〇年である。今日のオペラ観客は、台本において元帥夫人がわずか三十四歳とされていると知ると、少なからぬ衝撃を受ける。現在この役は、四十代後半あるいは五十代のソプラノ歌手によって歌われるのが一般的だ。もし三十四歳の魅力的な歌手が演じれば、元帥夫人の悲嘆は、たんに神経症的なもの、あるいは滑稽なものにさえ映るだろう。三十四歳にして自らを「老いた」と見なし、恋愛の資格を完全に失ったと考える女性など、今日ではほとんどいない。ここ数世代において、誰にとっても平均寿命が急激に延びたのに伴い、引退の年齢は引き上げられてきた。しかし、女性が自分の生を経験する形式は変わらないままである。「もう年をとりすぎた」という現実を甘受せざるをえない瞬間が、容赦なく近づいてくる。そして、その瞬間は例外なく——客観的には——時期尚早なのである。

前の世代では、こうした諦念はさらに早く訪れた。五十年前、四十歳の女性は単に老いつつあるのではなく、老い、終わっていた。抗う余地すらなかった。今日では、加齢への降伏に、もはや決まった日付はない。加齢の危機(ここでは豊かな国の女性に限る)はより早く始まり、より長く続き、女性の生涯の大半に拡散している。女性は、一般に老いと見なされる年齢に少しも達していなくとも、自分の年齢を気に病み、嘘をつきはじめる(あるいはその誘惑に駆られる)。危機は、いつでも訪れうる。その到来の時期は、個人に由来する(「神経症的な」)傷つきやすさと、社会的慣習の変化の両方に左右される。三十歳になるまで最初の危機を経験しない女性もいる。しかし四十歳を迎えるときの、あの吐き気を催すような衝撃から逃れられる者は一人もいない。誕生日のたびに、とりわけ新たな十年へと入るときに──切りのよい数字は特別な権威をもつ——、新たな宣告が響く。その予期のうちに、現実の苦痛とほぼ同じだけの苦痛がある。およそ一世代前に「若さの終わり」が三十歳へと繰り上げられて以来、二十九歳は居心地の悪い年齢になった。三十九歳もまたつらい。自分が中年の入口に立っているという事実を、陰鬱な驚きをもって思いめぐらすために、丸一年が費やされるからだ。その境界は恣意的だが、だからといって輪郭が薄れるわけではない。四十歳の誕生日を迎えた女性が、三十九歳であったときとほとんど変わらないとしても、その日はひとつの転換点として映る。しかし実際に四十歳の女性になるはるか前から、彼女は来るべき憂鬱に備えて心を固めている。ただ老いるだけが、すべての女性における大きな試練的悲劇のひとつとなる——そしてそれは確かに、最も長い悲劇なのである。

加齢とは、先送りされる宿命である。それは尽きることのない危機である——その不安が本当に使い果たされることがないからだ。「現実生活」ではなく、想像力の危機であるため、執拗に繰り返される性質をもつ。加齢の領域は(実際の老年とは異なり)はっきりとした境界をもたない。ある程度まで、その境界を自分の望むように定義できる。最初の衝撃を乗り越えたのち、新たな十年に入るたびに、生き延びようとする切迫した衝動が多くの女性を助け、その境界を次の十年まで引き延ばさせる。思春期後半には、三十代が人生の終わりに見える。三十歳になると、その宣告を四十歳へと先送りする。四十歳になると、なお自分に十年の猶予を与える。

大学時代、親友が二十一歳の誕生日に泣き崩れたのを覚えている。「私の人生でいちばんよい時期は終わってしまった。もう若くない」。彼女は最終学年で卒業を間近に控え、私は早熟な新入生でまだ十六歳だった。戸惑いながら、私は二十一歳はそれほど年を取っているとは思わないと言って、ぎこちなく慰めようとした。実際のところ、二十一歳になることの何がそれほど気落ちさせるのか、まったく理解できなかった。私にとってそれは、自立し、自由になれるという、ただ良いことを意味するだけだった。十六歳の私は若すぎて、この社会が、自分を少女だと考えるのをやめ、女性だと考えはじめるよう求める、あの奇妙でほとんど両義的な圧力に気づき、困惑するまでには至ってはいなかった。(現在のアメリカでは、この要求に応じる時期は、三十歳まで、あるいはそれ以降まで先送りできる。)しかし、たとえ私が彼女の苦悩をばかげたものだと思っていたとしても、二十一歳になる少年が同様の苦悩を抱くなど、単にばかげているどころか、想像すらできないはずだと、私は気づいていたに違いない。あれほどの切迫感と哀切をもって年齢を気に病むのは、女性だけだ。そしてもちろん、真正な危機がすべてそうであるように——危険の大半が虚構であり、想像力のなかの毒であるからこそ——それは強迫的に繰り返される。この友人もまた、その危機を何度も何度も、そのたびに初めてであるかのように味わいつづけたのである。

彼女の三十歳の誕生日パーティーにも出席した。多くの恋愛を経験した彼女は、二十代のほとんどを外国で過ごし、アメリカに戻ってきたばかりだった。初めて出会った頃の彼女も容姿に恵まれていたが、その頃には美しくなっていた。私は、二十一歳を迎えて流した涙をからかった。彼女は笑って、覚えていないと言い張った。しかし三十歳は、と彼女は自嘲気味に言った、それこそ本当の終わりだ、と。それからまもなく、彼女は結婚した。私の友人は今、四十四歳である。もはや世間でいうところの「美しい」女性ではないにせよ、彼女は人目を引く容姿で、魅力的で、生気に溢れている。小学校で教鞭を執り、二十歳年上の夫は、非常勤で商船員をしている。九歳になる子供が一人いる。夫が留守のとき、彼女は時折愛人をもつ。最近、彼女は私に、四十歳の誕生日が何よりもこたえたと話した(私はその場にはいなかった)。そして、残された時間はもうわずかだが、続く限りはそれを楽しむつもりだとも言った。彼女は、どんな会話のなかでも、口実があれば、虚勢と自己憐憫が入り混じった気概で実年齢を告げずにはいられない女性のひとりになった——それは日常的に年齢を偽る女性の心境とさして変わらない。けれども実際のところ、彼女は二十年前よりずっと、加齢を気に病まなくなっている。子供を持ったこと、それも三十歳を過ぎてからという比較的遅い出産は、たしかに彼女が自分の年齢と折り合いをつけるうえで助けになった。五十歳になれば、彼女はさらに勇敢に、諦めの年齢を先へ延ばしているだろうと、私は思う。

私の友人は、加齢の危機が生む犠牲者のなかでは、より幸運で、懸命に立ち直る力を備えた部類に入る。たいていの女性は、彼女ほど気丈ではなく、その苦しみに、彼女ほどの無邪気な滑稽さがあるわけでもない。しかし、ほぼすべての女性が、この苦しみを何らかの形で経験する。想像力を襲う反復的な発作は、たいていかなり若いうちに始まり、そのなかで女性たちは、自分自身を喪失の計算のなかに投影する。この社会の規則は、女性に対して残酷である。決して完全な大人にならぬよう育てられ、女性は男性よりも早く用済みと見なされる。つまり、多くの女性は三十代になるまで、性的に比較的自由に、かつ自己を表現できるようにはならないのである。(女性が性的成熟を迎えるのが遅いのは、生まれつきの生物学的理由によるのではなく、この文化が女性の成熟を遅らせるからである。男性に許されている性的エネルギーに出口の大半を奪われているため、多くの女性は、自分たちの抑制の一部をすり減らすまでに、それだけ長い時間を要するのである。)性的に魅力ある相手として不適格とされはじめる時期は、ちょうど彼女たちが性的に成熟した時期と重なる。老いのダブルスタンダードは、三十五歳から五十歳までの、おそらく性的生活における最良の年月を、女性から奪い取るのだ。

女性が男性から頻繁にお世辞を言われると期待し、その自信がいかにそうした賛辞に依存しているかは、このダブルスタンダードがいかに深く女性を心理的に弱体化させているかを反映している。できるだけ長く若く見えなければならないという、この社会の誰もが感じる圧力に加えて、女性には性的魅力を若さと明確に同一視する「女性性」の価値観が課されている。「相応しい年齢」でありたいという欲望は、男性においては決して持ちえない切迫感を、女性においては帯びている。若さを失うとき、彼女の自尊心と人生の歓びのはるかに大部分が脅かされる。大半の男性は、後悔や不安を抱えながら年を重ねる。だが大半の女性は、それをさらに苦痛なものとして、羞恥をともなって経験する。男性にとって、年を重ねることは宿命であり、人間である以上避けられないことである。女性にとって、年を重ねることは宿命であるだけではない。女性という、より狭く定義された人間であるがゆえに、それはまた脆弱性でもある。

女性であることは、女優であることだ。女性らしさとは一種の演劇であり、衣装、舞台装置、照明、様式化された身振りを伴っている。幼いころから少女たちは、自分の外見を病的なまでに過剰な仕方で気にかけるよう訓練される。自分を身体的に魅力ある客体として提示せよという圧力によって、彼女たちは——一人前の大人として生きるのに適さなくなるほどに——深く傷つけられ、歪められてしまうのだ。女性は男性よりも頻繁に鏡を見る。自分を見る、しかも頻繁に見る——それは事実上、女性の義務なのである。実際、ナルシシスティックでない女性は、女性らしくないと見なされる。そして文字通りその時間のほとんどを、外見の手入れと、それを引き立てるための買い物に費やす女性は、実際には一種の道徳的白痴であるにもかかわらず、この社会ではそのように見なされない。むしろごく普通の存在と思われ、仕事や大家族の世話にほとんどの時間を奪われている他の女性たちに羨まれる。ナルシシズムの誇示は、絶えず続く。レストランやパーティ、劇場の幕間や社交のさなかに、女性たちが自らの容姿を確認するために——化粧や髪型に乱れはないか、衣服に汚れがないか、皺が寄りすぎていないか、服のラインが崩れていないかを確認するために——一晩のうちに幾度も姿を消すのは、当然とされている。こうした行為を公衆の面前で行うことさえ、許容されている。レストランのテーブルで、コーヒーを飲みながら、女性は夫や友人の前で臆することなくコンパクトを開き、化粧や髪を整える。

女性においては正常な「虚栄心」として片づけられるこうした振る舞いも、男性が行えば滑稽に見えるだろう。女性が男性よりも虚栄心が強いのは、一定の高い水準で外見を維持せよという容赦ない圧力に晒されているからだ。この圧力をさらに重くしているのは、実際にはいくつもの基準が存在するという事実だ。男性は、顔と身体を一体のもの、ひとつの身体全体として提示する。女性は男性と異なり、身体と顔とに分離され、それぞれがいくぶん異なる基準によって判断される。顔に求められるのは美しさである。身体にとって重要なことは二つあり、それらは互いに矛盾する場合さえある。第一に、欲望をそそること。第二に、美しいことである。男性が女性に性的魅力を感じるのは、顔よりも身体による場合がはるかに多い。欲望を喚起する特徴——豊満さなどは——流行が美しいと定める特徴とは必ずしも一致しない。(たとえば近年の広告が推奨する理想の女性の身体は極端に細く、裸よりも服を着た方が魅力的に見えるほどだ。)しかし女性の外見への関心は、単に男性の欲望を喚起するためだけに向けられているわけではない。それはまた、ある種のイメージを作り上げようともしている。そのイメージによって、より間接的なかたちで欲望を呼び起こしながら、女性は自分の価値を表明する。女性の価値は自己提示の仕方にあり、それは身体よりもはるかに顔による。単純な性的誘引の法則に反して、女性はその注意の大半を身体に向けるわけではない。女性が示すよく知られた「正常な」ナルシシズム——すなわち鏡の前で費やされる時間——は、主として顔と髪の手入れに向けられる。

女性は、男性のようにただ顔を持つのではない。女性は顔と同一視される。男性は、自分の顔を自然のままに扱う。たしかに彼らも、容姿が良いかどうかを気にする。にきびや突き出た耳、小さな目に悩み、禿げていくのを嫌う。しかし、男性の顔における美の許容範囲は、女性の顔よりもはるかに広い。男性の顔は、基本的に手を加える必要がないものとして定義されており、清潔に保てばそれで十分とされる。自然が与えた装飾の選択肢——ひげ、口ひげ、髪の長さなど──を利用することはできる。しかし男性は、自分を偽装するよう求められてはいない。彼が「本当に」どういう人物かは、顔に表れるべきとされているのだ。男性は顔を通して生きる。顔には人生の歩みが段階的に刻まれる。彼が顔に手を加えない以上、顔は身体から切り離されるのではなく、身体によって完成される——その身体は、精力とエネルギーの印象によって、魅力を測られる。対照的に、女性の顔は潜在的に身体から切り離されている。彼女はそれを自然のままには扱わない。女性の顔は、修正・補正された自画像を描くキャンバスである。この創造の規則のひとつは、顔が彼女の見せたくないものを見せないという点にある。彼女の顔は紋章であり、イコンであり、旗印である。髪をどう整えるか、使う化粧の種類、肌の質感——これらはすべて、彼女が「本当は」どのような人物かを示す記号ではなく、他者に、とりわけ男性に、どのように扱われたいかを伝える記号である。それらは彼女の「対象」としての地位を確立する。

年齢がすべての人間の顔に刻みつける通常の変化に対して、女性は男性よりもはるかに重く罰せられる。思春期前半からすでに、少女たちは顔を摩耗や傷みから守るよう注意される。母親は娘にこう言う(息子には決して言わないが)。泣くと醜く見えるわよ。悩みすぎないで。本を読みすぎないで。泣く、顔をしかめる、目を細める、さらには笑う——これら人間的な行為はすべて「皺」を作る。男性が同じように顔を使う場合には、きわめて肯定的に判断される。男性の顔に刻まれた皺は、「風格」の徴とみなされる。それらは感情の強さや成熟を示すとされ、女性においてよりも男性においてはるかに尊ばれる資質である。(「彼が『生きてきた』証」というわけだ。)傷跡でさえ、しばしば醜いとは見なされない。それもまた、男性の顔に「人格」を加えるのである。ところが、女性の顔においては、加齢による皺、いかなる傷跡も、小さな生まれつきの痣でさえ、つねに不運な欠点と見なされる。要するに、人びとは男性と女性とで「人格」を構成する要素が異なると考えている。女性の人格は、生得的で固定的と考えられ、経験や年月、行為の産物ではないとされ得るのだ。女性の顔の価値は、変わらないままでいるかぎりで、あるいは感情や身体的な危険を冒した痕跡を隠しているかぎり保たれる。理想を言えば、それは変わることなく、傷のない仮面であるべきとされる。模範とされる女性の顔は、ガルボの顔である。女性は男性よりもはるかに深く顔と同一視されており、理想の女性の顔は「完璧な」顔であるがゆえ、女性が顔を損なう事故に遭えば、厄災のように思われる。折れた鼻、傷跡、火傷の痕は、男性にとってはせいぜい遺憾なものにすぎないが、女性にとっては深い心理的傷となる。客観的に見て、それは彼女の価値を損なうのだ。(よく知られているように、美容整形の顧客の大多数は女性である。)

男女ともに身体的な理想を目指すが、少年への期待と少女への期待とは、身体との道徳的な関わり方において大きく異なっている。少年たちは身体を鍛え、それを向上させるべき道具と捉えるよう奨励される。彼らは主として運動やスポーツを通じて、男性的な自己を作り上げる。それらは身体を鍛え、競争心を強める。衣服は、身体を魅力的に見せるうえで副次的な助けにすぎない。少女たちは、激しいものであれそうでないものであれ、何らかの活動を通じて自分の身体を鍛えるよう、とりたてて奨励されない。身体的な強さや持久力もほとんど評価されない。女性的な自己の創出は、主として衣服やその他の記号を通じて進む。それらは、少女たちが魅力的に見えようと努力していること、他者を喜ばせようと献身していることの証となる。少年が男性になると、(とりわけ座り仕事に従事している場合には)しばらくはスポーツやエクササイズを続けるかもしれない。しかし大抵の場合、外見には手を加えない。自然から与えられたものを、多かれ少なかれ受け入れるよう訓練されてきたからである。(四十代になって、減量のために再び運動を始める男性もいるだろうが、それは健康上の理由によるものだ——豊かな国々の中年層には心臓発作への恐怖が蔓延しているからであり、美容上の理由からではない。)この社会における「女性性」の規範のひとつが、自らの外見への執着であるのと同じように、「男性性」とは、自分の容姿にさほどこだわらないことを意味する。

この社会は男性に、女性よりもはるかに肯定的な身体との関係を許している。男性は、自らの身体を無造作に扱おうと、あるいは攻撃的に使おうと、自分の身体に安住している。男性の身体は、強い身体として定義される。そこには、魅力的と感じられるものと実用的なものとのあいだに矛盾はない。女性の身体は、魅力的と見なされるかぎり、脆く、軽い身体として定義される。(そのため、女性は男性よりも体重の増加を気にする。)運動をする場合にも、女性は筋肉、とりわけ腕の筋肉を発達させる運動を避ける。「女性的」であるとは、肉体的に弱く、華奢に見えることを意味する。したがって、理想の女性の身体とは、この世界の重労働において実用的な役にはあまり立たず、絶えず「守られ」なければならない身体である。女性は男性のように身体を発達させない。思春期後半までに女性の身体が性的に許容される形に達すると、それ以降の発達は、否定的に受け取られる。そして男性にとっては普通の振る舞い——ただ外見に手を加えないだけ——でも、女性がそうすれば無責任と見なされる。若年期において、女性たちは生涯で最も理想像に近づく。ほっそりした体型、滑らかで張りのある肌、控えめな筋肉、優美な動き。彼女たちの課題は、そのイメージを変わらぬまま、できる限り長く維持することだ。向上それ自体は課題ではない。女性は、硬くなり、粗くなり、太るのに抗うようにして身体を手入れする。身体を保存するのである。(近代社会において女性が男性よりも保守的な政治的見解を持つ傾向は、ひょっとすると、彼女たちの身体に対する深い保守的関係に起因しているのかもしれない。)

この社会における女性の人生において、誇りと自然な率直さ、無自覚な開花の時期は短い。若さが過ぎれば、女性は年齢の侵蝕に抗って自分自身を作り上げ、維持しつづけるよう運命づけられる。女性において魅力的とされる身体的資質の大半は、「男性的」と定義される特質よりも、はるかに早い段階で衰えていく。実際、それらは身体変化の通常の過程のなかで、かなり早く失われていく。「女性的」とは、滑らかで、丸みを帯び、毛がなく、皺がなく、柔らかく、筋肉の目立たない——ごく若い者の外見であり、弱い者、傷つきやすい者の特徴だ。ジャーメイン・グリアが指摘したように、宦官の特質である。実際、この外見が生理的に自然であり、手を加えたり覆い隠したりせずに保てるのは、思春期後半から二十代前半までの、ほんの数年にすぎない。その後女性たちは、社会が提示するイメージ——すなわち女性にとって何が魅力的かをめぐるイメージ——と、変化していく自然の事実との隔たりを埋めようとする、無謀な企てに身を投じるのである。

女性が男性よりも加齢とより密接な関係を持つのは、顔や身体に老いの兆候が現れないよう腐心することが、認められた「女性の仕事」のひとつだからである。女性の性的有効性は、ある時点まで、こうした自然な変化にどれほどうまく抵抗できるかにかかっている。思春期後半を過ぎると、女性は自分の身体と顔の管理者となり、本質的に防衛的な戦略——持久戦——を遂行する。瓶や容器に詰まった無数の製品、美容外科の一分野、そして夥しい数の美容師、マッサージ師、ダイエット・カウンセラーなどが存在するのは、生物学的に完全に正常な変化を先送りするため、あるいは覆い隠すためである。女性のエネルギーの多大な部分が、自然を欺こうとするこの熱狂的で腐敗した努力——加齢の進行に抗って、理想の固定した外見を維持しようとする努力——へと注ぎ込まれる。この企図の崩壊は、時間の問題にすぎない。必然的に、女性の身体の外見は若い形を超えて変化していく。どれほど稀少なクリームを使おうと、どれほど厳格な食事制限を課そうと、顔に皺を無限に防ぎ、ウエストをほっそりしたまま保つことはできない。出産は代償をともなう。胴回りは厚くなり、肌は伸びる。二十代半ばには、目や口の周りに特定の皺が現れるのを防ぐ手立てはない。三十歳頃から、肌は徐々に張りを失っていく。女性にこの完全に自然な過程は、屈辱的な敗北と見なされる。一方、男性における同等の身体的変化に取り立てて醜さを感じる者はいない。男性は、性的代償なしに老けて見える「許可」を与えられているのだ。

したがって、女性が男性よりも大きな苦痛をもって加齢を経験をする理由は、単に彼女たちが自分の見た目を気にするからではない。男性もまた自分の容姿を気にし、魅力的でありたいと望む。しかし男性の領分は、見られることではなく、主として何者であるか、何をするかにあるため、外見の基準ははるかに厳しくない。男性において魅力とされる基準は許容的であり、多くの男性にとって人生の大半を通じて可能なあり方、あるいは「自然な」あり方に一致している。これに対して、女性の外見に求められる基準は反自然であり、それに少しでも近づくには、かなりの努力と時間を要する。女性は美しくあろうとしなければならない。少なくとも、醜く見えないようにせよという強い社会的圧力のもとに置かれている。女性の境遇は、男性の場合よりはるかに大きく、少なくとも外見上「許容できる」かどうかにかかっている。男性はこの圧力にさらされていない。男性にとって容姿に恵まれているのは付加的な恩恵であって、正常な自尊心を維持するための心理的必須条件ではない。

女性が男性よりも年齢によって厳しく罰せられる背景には、少なくともこの文化では、醜さへの許容度が男性の場合より女性の場合において明らかに低いという事情がある。醜い女性は、単に嫌悪を催させるだけではない。その醜さは、男性にも女性にも、どこか気まずいものとして感じられる。また、女性の顔においては醜いとされる多くの特徴や欠点も、男性の顔にあれば十分に許容される。ここで強調しておきたいのは、これは単に男女で基準が異なるからではない、という点だ。むしろ、女性に課される審美的基準が、男性に提示される基準よりもはるかに高く、かつ狭いからである。

美とは、この社会における女性の領分であり、彼女たちの隷属が演じられる劇場である。公認された女性美の基準はただひとつ、少女である。男性が持つ大きな利点は、私たちの文化が男性美に二つの基準を認めている点にある。少年と、成人男性である。少年の美は少女の美に似ている。どちらの性においても、それはライフサイクルの初期においてのみ自然に花開く、はかない種類の美である。幸いにも男性は、より重く、粗く、厚みのある別の容姿の基準のもとで自分を受け入れられる。少年の持つあの滑らかで、皺のない、無毛の肌を失ったからといって、男性は嘆かない。それは単に、魅力のひとつの形を別の形へと取り替えたにすぎない——日々の髭剃りによって荒れ、感情の痕跡と年齢が刻む自然な皺を示す、男の顔のより色濃い肌へと。女性には、この第二の基準に相当するものがない。女性に課された唯一の美の基準は、澄んだ肌を持ち続けなければならないと命じる。皺の一本一本、線の一本一本、白髪の一本一本が欠点である。少年が男性になるのを少しも厭わない一方で、少女期から若い女性期への移行でさえ、多くの女性にとっては転落として経験されるのも不思議ではない。すべての女性は、いつまでも少女のように見え続けたいと望むよう条件づけられているからである。

美しい年配の女性などいない、と言っているのではない。だが、いかなる年齢の女性における美しさの基準も、若さの外観をどれほど保っているか、あるいはいかにそれを装えているかにかかっている。美しい六十代の女性がいるとすれば、その美しさの大半は遺伝子の恵みによるものだろう。老いの遅れは、容姿のよさと同様、家系に現れる傾向がある。しかし自然が、この文化の基準を満たすに足るものを与えてくれることは稀だ。老いの外見を首尾よく遅らせた女性の大半は裕福であり、その富が自然の贈り物を育てることに費やす余裕を与えている。彼女たちがしばしば女優である。(すなわち、すべての女性がアマチュアとして実践するよう教えられていること、高報酬の職業として行う専門家だ。)マレーネ・ディートリヒ、ステラ・アドラー、ドロレス・デル・リオといった女性たちは、美と年齢の関係をめぐる規則に意義を唱えているのではない。彼女たちが讃えられるのは、まさにその例外性ゆえであり、(少なくとも写真上では)自然を出し抜くことに成功しているからである。このような奇跡、こうした例外は、規則を確認するだけだ。これらの女性たちが私たちに美しく見えるのは、まさに彼女たちが実年齢には見えないからである。老女として見える美しい老女のための場所を、社会は私たちの想像力のなかに許していない。——南フランスの別荘で屋外に立ち、ショートパンツとサンダルだけを身につけて写真に収められた九十歳のピカソのような女性がいるとは、誰も想像しない。特別な例外——メイ・ウェストやコレット——でさえ、つねに屋内で、巧みに照明を当てられ、最も有利なアングルから、完全に、巧みに着飾った姿で撮影されている。その意味するところは、より近くから目を凝らされれば、彼女たちは目に耐えないということだ。水着の老女が魅力的である、あるいは少なくとも許容できる見た目であるという考えは、想像不可能だ。実際にまったく老けて見えないかぎり、年配の女性とは、定義上、性的に嫌悪を催させる。老女の身体は、老いた男性の身体とは異なり、もはや見せ、差し出し、露わにすることのできない身体として常に理解されている。せいぜい衣装をまとった姿で現れるにすぎない。人びとはなお、彼女の仮面が落ちたら、彼女が衣服を脱いだら、何を目にすることになるのかを考えて、居心地の悪さを覚えるのである。

したがって、女性が着飾り、化粧をし、髪を染め、過酷なダイエットに励み、フェイスリフトを受ける目的は、単に魅力的になるためだけではない。それらは、女性に向けられる深いレベルでの不承認——嫌悪という形すらとりうる不承認——から、身を守る手段なのである。老いのダブルスタンダードは、女性の人生を、単に魅力を失うだけでなく嫌悪を催させる状態へ向かう、容赦ない歩みへと変えてしまう。女性の人生における最も深い恐怖は、ロダンの《老い》と呼ばれる彫像に表された瞬間である。裸の老女が座り、張りを失い、垂れ下がり、損なわれた自らの身体を痛ましげに見つめている。女性における加齢とは、性的に猥褻なものになっていく過程である。老女のたるんだ胸、皺の寄った首、しみのある手、薄くなった白髪、くびれを失った胴、静脈の浮き出た脚は、猥褻なものと感じられるからだ。想像力が最も暗澹たる形で働く瞬間には、この変容は恐るべき速さで起こりうる——映画「失われた地平線」(Lost Horizon, 1973)の結末で、美しい若い娘が恋人に抱えられてシャングリラの外へ運び出されると、数分のうちに、しなびた嫌悪を催させる老婆へと変貌するように。男性にとって、これに相当する悪夢はない。だからこそ、男性がどれほど外見を気にかけようとも、その配慮が、女性においてしばしばそうなるような必死さに達することは決してない。男性が流行の服をまとい、化粧品を使う時でさえ、衣服や化粧に女性が求める役割を期待してない。男性が使う化粧水、香水、制汗剤、ヘアスプレーは、偽装の一部ではない。男性は、男性であるかぎり、道徳的に否認された老いの徴をかわすために、性的に早々と用済みにされる事態を出し抜くために、猥褻なものとしての老いを覆い隠すために、自らを偽装する必要を感じない。滑らかで、若く、引き締まり、無臭で、傷ひとつない形をとる場合を除いて、この文化が女性の身体に向ける、ほとんど隠されることのない嫌悪に、男性は晒されない。

女性を最も苛酷に罰する態度のなかでも、とりわけ根深いのは、老いた女性の肉体に対して抱かれる、生理的な恐怖である。それはこの文化の奥底に根づいた女性への根源的な恐れを露わにする、悪女、荒々しい女、妖婦、魔女といった神話的戯画のなかに結晶化した、女性をめぐる悪魔学である。西洋史上最も残酷な絶滅計画のひとつが遂行された、数世紀にわたる魔女恐怖は、その極端な性格を物語っている。老女は嫌悪を催させるという感覚は、私たちの文化において最も深く根づいた美的・性愛的感覚のひとつであり、女性自身も男性同様にそれを抱いている。抑圧者は概して、被抑圧者から、その人びと自身に固有の美の基準を奪う。そして被抑圧者は結局、自分たちが醜いのだと確信させられる。この女性嫌悪的な美の観念によって、女性たちが受ける心理的損傷は、美を「白さ」と定義してきた社会のなかで、黒人が歪められてきたあり方と並べて考えられるべきだ。数年前にアメリカで幼い黒人の子供たちに行われた心理テストは、彼らがどれほど早く、また徹底的に白人の容姿の基準を内面化するかを示した。これらの研究で調査されたほぼすべての子供たちが、黒人を醜く、滑稽な見た目で、不潔で、野蛮だと考えていると示したのである。これと同様の自己嫌悪が女性を蝕んでいる。男性と同様に、女性自身もまた、女性における老年を、男性における老年よりも「醜い」と感じている。

この審美的タブーは、性的態度において、人種的タブーと同じように機能している。この社会の大半の人は、中年の女性が若い男性と愛を交わす場面を想像するとき、思わず身を引くような反応を覚える——それはまさに、多くの白人が、白人女性が黒人男性とベッドを共にするという考えに、生理的にたじろぐのと同じなのだ。五十歳の男性が四十五歳の妻を捨てて、二十八歳の恋人に走るというありふれたドラマは、見捨てられた妻への同情がいかなるものであれ、厳密な意味で性的な憤激を呼び起こさない。それどころか、誰もが「理解する」。男性は若い娘を好むし、若い女性は往々にして中年男性を望むと、誰もが知っている。だが、逆の状況を「理解」する者はいない。五十歳の夫を捨てて二十八歳の愛人のもとへ走る四十五歳の女性は、感情の深いレベルにおける社会的かつ性的なスキャンダルの種となる。男性が女性より二十歳以上年上であるカップルに異議を唱える者はいない。映画は、ジョアン・ドルーとジョン・ウェイン、マリリン・モンローとジョゼフ・コットン、オードリー・ヘプバーンとケーリー・グラント、ジェーン・フォンダとイヴ・モンタン、カトリーヌ・ドヌーヴとマルチェロ・マストロヤンニをカップルとして配してきた。現実の人生と同様、これらはまったく妥当な、魅力的な組み合わせである。年齢差が逆になると、人びとは困惑し、気まずくなり、ただ衝撃を受ける。(映画「枯葉」〔Autumn Leaves, 1956〕のジョーン・クロフォードとクリフ・ロバートソンを想起されたい。)この種の恋愛はあまりに不安をかき立てるため、映画で扱われる例も少なく、登場したとしても憂鬱な失敗の物語としてのみだ。四十歳の女性と二十歳の青年、あるいは五十歳の女性と三十歳の男性が結婚する理由について、通常の見方は、男性が求めているのは妻ではなく母親だというものだ。その結婚が続くと信じる者はいない。年齢からすれば父親であってもおかしくない男性に、女性が性愛的にも恋愛的にも反応するのは、普通と見なされる。だが、どれほど魅力的であろうと、自分の母親ほどの年齢の女性と恋に落ちる男性は、きわめて神経症的であり(「エディプス的固着」の犠牲者、というのが流行りのレッテルだ)、場合によっては、軽蔑に値さえするとさえ考えられている。

カップルにおける年齢差が大きければ大きいほど、女性への偏見はより明白になる。ダグラス判事、ピカソ、ストロム・サーモンド、オナシス、チャップリン、パブロ・カザルスのような老年の男性が、自分より三十、四十、五十歳も若い花嫁を迎えるとき、人びとはそれを驚くべきこと、あるいはやりすぎだとは感じるが、それでもなおありうるものとして受け止める。そうした組み合わせを説明するために、人びとは羨望をこめて、その男性に特別な精力と魅力を認める。彼はハンサムではないとしても有名であり、その名声が女性を引きつける魅力なのだと理解される。若い妻は、老いた夫の業績に敬意を抱き、彼の助力者となるのを喜んでいると想像する。男性にとって、晩年の結婚はつねによい宣伝になる。高齢になってもなお一目置かれる人物であるという印象を強めるからであり——それは、彼の芸術、事業活動、政治的キャリアにもなお及んでいると推定される、持続する活力の徴なのである。しかし、年配の女性が若い男性と結婚したなら、まったく別の反応が向けられるだろう。彼女は厳しいタブーを破ったことになるが、その勇気を称えられることはない。活力を讃えられるどころか、捕食的、強情、利己的、自己顕示的だと決めつけられるだろう。と同時に、そのような結婚は彼女がすでに耄碌している証拠と受け取られ、憐れまれる。もし彼女が通常の職業を持っていたり、事業を営んでいたり、公職にあったりすれば、たちまち世間の不承認にさらされるだろう。若い夫が彼女に不当な影響を及ぼしているのではないかと疑われ、専門家としての信用そのものが疑われるだろう。彼女の「まっとうさ」は、確実に毀損される。実際、そうした結婚に踏み切った有名な老齢の女性として私が思い浮かべることのできる者たち——たとえ、それが人生の終わり近くであったとしても——ジョージ・エリオット、コレット、エディット・ピアフは、いずれも、スキャンダラスに振る舞う特別な許可を社会から与えられた、創造的芸術家や芸能人のカテゴリーに属していた。女性が、自分は老いており、したがって男性にとっては醜く嫌悪を催させるのだという前提を無視するのは、スキャンダルだと見なされる。女性の望ましさを決定づけるのは、本人の才能や欲求ではなく、容姿と一定の身体的条件である。女性が「力をもつ」存在であってはならない。老年の女性と若い男性との結婚は、両性間の関係における根本原則そのものを覆す。表向きの差異がどうであれ、男性が支配的な立場にあり続けるという原則である。男性の権利主張が優先される。女性は男性の協力者や伴侶であるべきであって、完全な対等者であってはならず、まして男性より優位に立ってはならない。女性は永続的な「未成年」の地位にとどまるべきとされているのである。

妻は夫より若くあるべきだという慣習は、女性の「未成年」としての地位を強力に支えている。どのような関係においても、年長であることは、つねに一定の権力と権威を伴うからだ。もちろん、この件について法律で定められているわけではない。この慣習が守られるのは、そうしなければ、何か醜い振る舞い、悪趣味な振る舞いをしているかのように感じさせるからである。誰もが、男性が女性より年上である結婚に、審美的な正しさを直観的に感じ取る。裏を返せば、女性が年上の結婚は、どこか疑わしく、満足感に乏しい心象を生み出す。人びとはみな、男性が免除されている一定の審美的要件を、女性が満たすことで生じる視覚的快楽に依存している。そのため、女性は若々しく見えるための努力を続けさせられ、男性は自由に年を取るのを許される。より深いレベルでは、誰もが女性における老いの兆候を審美的に不快と感じており、年配の女性がはるかに若い男性と結婚するという見通しに、反射的な嫌悪を覚えるよう条件づけられている。女性が生涯にわたって未成年に留め置かれる状況は、そのような同調的で内省を欠いた嗜好によって、大きく形づくられている。しかし、好みは自由ではなく、その判断はけっして単に「自然」ではない。好みの規則は、権力構造を強化する。女性の老いへの嫌悪は、しばしば礼節として覆い隠されながら女性を所定の位置に押しとどめる、一連の抑圧的構造の鋭い刃先なのである。

女性に提示される理想の状態は従順さであり、それは、完全には大人になっていないことを意味する。典型的に「女性的」として愛でられるものの大半は、幼稚で、未熟で、弱い振る舞いにすぎない。これほど低く、人を貶めるような充足の基準を提示するだけで、それ自体が、きわめて深刻な抑圧の一形態であり、いわば道徳的な新植民地主義である。しかし女性は、男性の支配を支える価値観から見下されているだけではない。彼女たちは拒絶されてもいる。おそらく、あまりにも長いあいだ抑圧者であり続けてきたため、ほとんどの男性は(個々の女性を愛してはいても)女性一般を心から好いてはおらず、女性と一緒にいて本当にくつろげる男性もほとんどいない。この不快感は、男女関係が欺瞞に満ちていることから来ている。男性は、自分が支配し、それゆえ尊重しない者たちを愛することを、どうにかしてやりくりするからだ。抑圧者はつねに、自らの特権と残酷さを正当化しようとする。被抑圧者たちが文明の低い段階に属するとか、完全に「人間」ではないとか、想像することによって。固有の人間的尊厳の一部を奪われた被抑圧者たちは、ある種の「悪魔的」特徴を帯びるようになる。大集団への抑圧は、心の奥深くに根づかせなければならず、部分的に無意識の恐れとタブー、猥褻の感覚によって絶えず更新され続ける。かくして、女性は男性において欲望や愛情だけでなく、嫌悪をも喚起する。女性は十全に飼い馴らされた身近な存在である。しかし、特定の時と状況において、彼女たちは異質な、触れてはならない存在となる。男性が感じる嫌悪——その大部分は覆い隠されている——が、最も率直に、最も抑制なく向けられるのは、審美的に最もタブーとされた種類の女性、すなわち加齢がもたらす自然の変化によって「猥褻」と見なされるに至った女性に対してなのである。

女性の脆弱性をこれほど明瞭に示すものはない——彼女たちが年を重ねることをめぐって経験する、あの特有の苦痛、混乱、そして自己欺瞞に他ならない。そして、一部の女性たちがすべての女性のために、「女」としてのみではなく、完全な人間として扱われ、また自分自身を完全な人間として扱うために進めている闘いにおいて、まず期待される成果のひとつは、女性たちが、自らをこれほど苛酷に苦しめている老いのダブルスタンダードを、憤りとともに意識するようになることである。女性がしばしば年齢について嘘をつく誘惑に屈してしまうのも理解できる。社会のダブルスタンダードを考えれば、女性に年齢を尋ねる行為が、実際しばしば攻撃的な行為であり、罠である。嘘は初歩的な自己防衛の手段であり、少なくとも一時的には、その罠から脱する方法なのである。「ある年齢」を過ぎた女性に、自然の恵みや美容技術の巧みさによって実年齢よりいくらか若く見える可能性があるにもかかわらず、正確な年齢を明かすよう期待するのは、売りに出した不動産の本当の価値が、買い手の支払うつもりでいる額よりも実際には低いと、地主に認めろと迫るようなものだ。老いのダブルスタンダードは、女性を所有物として、カレンダーの進行とともに価値が急速に目減りする対象として仕立て上げる。

女性が年を重ねるにつれてのしかかる偏見は、男性特権を支える重要な一翼を担っている。女性には否定されている「年を取る自由」を男性に与えているのは、現在の両性間における成人としての役割の不平等な配分に他ならない。男性が老いのダブルスタンダードを積極的に運用しているのは、「男性的」な役割が求愛行動における主導権を彼らに与えているからである。男性が選び、女性は選ばれる。だから男性は、より若い女性を選ぶ。けれども、この不平等なシステムが男性によって運用されているとはいえ、女性自身がそれに黙従していなければ、システムは機能しない。女性たちは自らの現状への安住、苦悩、嘘によって、この構造を強力に補強している。

女性は男性よりも年齢について多く嘘をつくだけではなく、男性はそれを許し、それにより自らの優越性を確認する。自分の年齢について嘘をつく男性は、弱く、「男らしくない」と見なされる。年齢を偽る女性は、まったく許容可能な「女性らしい」振る舞いをしているとされる。些細な嘘は、女性に対してなされる数々の恩着せがましい配慮のひとつとして、男性から大目に見られる。それは、女性が約束に遅れがちだという通念と同じく、道徳的には取るに足らないとされる。女性には、正直さも、時間厳守も、機械の扱いや修理への熟達も、倹約も、身体的な勇敢さも期待されない。彼女たちは、男性への感謝を伴う依存を自然状態とする、二級の成人であるよう期待されている。そして実際そうなっている。そのように育てられるからだ。女性が「女性らしい」振る舞いのステレオタイプを必要とするかぎり、完全に責任ある、自立した成人として振る舞うことはできない。

大半の女性は、老いのダブルスタンダードに表れた女性への軽蔑を共有している——しかも、自尊心の欠如を当然のように受け入れるほどに。彼女たちは長いあいだ、仮面、微笑み、愛嬌のある嘘による保護に慣れすぎてきた。その保護がなければ、自分たちがさらに傷つきやすくなると知っている。けれども、女性として自らを守ることで、大人としての自分自身を裏切る。女性の人生における腐敗の典型は、自分の年齢を否認することだ。彼女は象徴的に、女性たちを閉じ込める安心と特権を与え、真の抑圧を生み出し、現実の不満をかき立てる、あらゆる神話を受け入れる。女性は年齢について嘘をつくたびに、人間としての自らの発達不全の共犯者となる。

女性には別の選択肢がある。ただ感じがよいだけでなく、賢くあろうとすること。単に役に立つだけでなく、有能であること。単に優雅であるだけでなく、強くあること。男性や子供との関係においてのみならず、自分自身のために野心を抱くこと。恥じることなく自然に老いるのを自らに許し、この社会の老いのダブルスタンダードから生まれる慣習に積極的に抗議し、それに従わないこともできる。できるかぎり長く少女であり続け、やがて屈辱的に中年女性となり、さらに猥褻なものとして老女になっていくのではなく、女性ははるかに早く女性となることができる——そして活動的な大人であり続け、女性に可能な長い性愛的キャリアを、より長く享受することができる。女性は、自分の顔が、自分の生きてきた人生を示すことを許すべきだ。女性は真実を語るべきである。

(一九七二年)


 
 
 

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スーザン・ソンタグ『女性論』より「女性の第三世界」試訳未校正

注 本稿は一九七二年七月、『リブレ』誌編集部から私を含む六人の女性(シモーヌ・ド・ボーヴォワールとイタリア共産党議員ロザーナ・ロッサンダを含む)に送られた質問状への回答として書かれた。『リブレ』はパリで編集されているマルクス主義的な傾向をもつ新しいスペイン語政治・文学季刊誌で、本作は同誌の一九七二年十月号(第三号)に、スペインの小説家フアン・ゴイティソーロの翻訳によって掲載された。『リブレ』の読者

 
 
 
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